買い出しの日:水
第1話
宿泊客がいる夜は、ルームメイドの一人が夜の当番になる。
昨夜はリータ先輩だった。
朝の六時。
柱時計がその時刻を表して鳴り響くのと同時にサラは部屋を出た。
すると、階段の向こうからリータ先輩が上がってくるのが見えた。
「おはよーごぜえます」
「ん、おはよう」
久しぶりに夜の当番だったからか、そのあいさつには気力がまったく込められていなかった。
見るからに眠そう。
「まったく、演芸の日に夜の当番なんてついてないわ」
「しょーがねーべ、そればっかりは」
「わかってるのよ。でも、サラが早起きで助かったわ。実を言うと、もう眠気も限界だったからあんたを起こしに行こうと思ってたのよ。やっぱり仕事の割り振りを変えて正解だったわね」
いつにもまして舌っ足らずな声で聞いていると、起きたばかりのサラまで眠くなってしまいそう。
「そーなもんかいね」
「そうよ。レイナだったらこうはいかないわ。あの子はしっかりしているように見えて、寝起きだけは悪いんだから」
サラがマリリン亭に勤めるようになる前、朝の玄関の掃除は先輩方の当番制だったらしい。
その頃のレイナ先輩は遅刻の常習犯だったと愚痴りながらリータ先輩は部屋へと戻っていった。
「おやすみなさいまし」
「んー、おやすみ」
サラのあいさつに手だけで返事をして、扉を閉めた。
「そんれにしても、あのレイナ先輩がねぇ。想像もできねーっペなぁ」
そう独り言をつぶやきながらサラは階段を降りて玄関へと向かった。
一階の酒場ホールに着くと、鼻先を香ばしいバターの香りがかすめた。
まだ朝の六時だというのに、酒場ホールにはすでに二人のお客さんが朝食を食べていた。
カウンターの椅子にはマリリンが座っている。
「おはよーごぜえます」
「おはよう、サラ。あなたって本当に時間に正確なのね」
「そーなもんか? わだすにとってはこれが当たりめーなもんで」
「それを当たり前だと言えるところが偉いわ。どうする? 先に朝食が食べたければ用意できるわよ」
そう言って食パンとナイフを持ち上げた。
「いーえ。まんずは玄関先の掃除をせにゃあ、食べる気ーにならんで」
「そう、じゃあお願いするわね」
「はい」
そう言って、いつもの朝のように井戸で顔を洗い、その足で倉庫から掃除道具を持ち、玄関先へ向かう。
「おはよーごぜえます」
一応酒場ホールを抜ける時、二人のお客さんに向けてあいさつをした。
「おはよう、サラちゃん。今日も一段と自然な輝きに溢れているね」
「…………」
二人のお客さんの反応は面白いくらいに真逆だった。
フローレンスさんは朝からノリの良い高いテンションで、軽いあいさつ。
ギルバートさんは昨夜の妙な雰囲気を漂わせて、チラリと一瞥しただけ。
サラは構わず外に出た。
朝日が通りを照らす。
今日も快晴のようだ。
昨日は酒場が盛況だったから、マリリン亭の前の通りも少し汚れていた。
大きなゴミは直接手で拾ってから、ほうきで小さいゴミを一箇所に集める。
十分くらいほうきでゴミを掃いていたら、玄関の扉が開いた。
誰かと思ってそちらに顔をやると、出てきたのはギルバートさん。
「あ、もうお出かけですんの?」
「…………」
サラの言葉にピクリと動きを止めたが、返事をすることなくすぐに足を踏み出した。
応える気がないというよりは、全身で関わることを拒絶するかのよう。
やっぱり訳ありのお客さんのようだ。
マリリン亭にはそういうお客さんが泊まることがあるので、サラもそれ以上は話しかけるのを止めた。
お客さんの事情に、宿屋の一ルームメイドが突っ込んではいけないのだ。
黙って礼をしてお見送りをした。
すると、すぐにまた玄関の扉が開かれた。
出てきたのはフローレンスさん。
「あんれ? フローレンスさんも、もうお出かけで?」
「……いや、そうじゃない。それよりも、リータちゃんやレイナちゃんに聞いたんだけど、今チェックアウトした客、何か妙なんだって?」
「さあ……、見ての通りだんべ」
妙、だというのはサラたちの勝手な印象なのであって、それをお客さん相手に押しつけるのもどうかと思った。
「ちょっと、追いかけてみる」
「え……あんの――」
さすがにそれはやり過ぎだと思ったので止めようとしたが、すでにフローレンスさんは駆け出していた。
仕方がないので、その場にほうきとちりとりを置いて、小走りで追いかける。
……これではまるで、サラまでもがギルバートさんを追いかけているみたいだけど。
大通りを町の中心部に向かって行く。
サラはすぐに走るスピードを緩めた。
追いかけて行ったはずのフローレンスさんがこちらに向かって戻ってきていたから。
「あんの、フローレンスさん。追いかけんのはよくねーべ。そう思って諦めただか?」
「さあ、どうだろうね」
細い目尻をさらに細めて、挑戦的な瞳をさせながら、フローレンスさんはマリリン亭の扉を開けた。
思わせぶりな態度が少し気になった。
それでも、ルームメイドとしては仕事を終わらせることが最優先だ。
残っていた掃き掃除を終えてから、さらはマリリン亭へ戻った。
……ちょっとだけ、掃除が雑になってしまったかも知れない。
中に入ると酒場ホールのカウンター席でフローレンスさんとマリリンが何やら声を潜めて話をしていた。
わざとらしいにもほどがある。
マリリン亭には今、お客さんと呼べるのはフローレンスさんしかいないのだ。
わざわざ小声で話す必要なんてない。
「何をなさっているんですか?」
少し寝ぼけたような声を出しながら、レイナ先輩が階段を降りてきた。
「ちょうどいいところに来たわね。レイナ、昨日あの妙なお客さんに何か聞かれたっていうのは本当なの?」
「……妙なお客さんって……ギルバートさん?」
朝の弱い先輩らしく、マリリンの質問の意味を考えるだけでも苦労しているようだった。
「そうよ」
「……そうですね。確か、妙なお客さんがいらしたかどうか……とか……」
それは、サラも聞かれたことだった。
「あのお客さん、ひょっとしたらマクシミリアンのスパイだったのかも知れないわよ」
「――へ? スパイ?」
目を丸くさせていたのは、サラとレイナ先輩だけだった。
「今日も朝一番にチェックアウトして、なんか妙だったからさ、あたしがフローレンスに行き先を探ってもらったのよ」
「は? ほんじゃ、フローレンスさんはマリリンに言われて? ってゆーか、やっぱり追いかけちまってたんけ?」
しかしそれにしてもずいぶんと戻ってくるのが早かった。
「憶測でものを言うのはよくないんじゃありませんか?」
すでに眠気はなく、はっきりとした声でレイナ先輩が言った。
普通のお客さん相手には、決してこういう風には話さない。
フローレンスさんは月に一度とはいえここの常連で、おまけに芸人だからサラたち従業員側に近い。
レイナ先輩でもあまり言葉遣いを気をつけない。
「憶測じゃないさ。実際に追いかけたからね」
「それって、もっとよくないことだと思いますけど」
「大事の前の小事というやつだよ。世の中正しいと思えることだけやって生きていると、ろくな目に遭わないよ~」
語尾を伸ばす独特のしゃべり方で歌うようにフローレンスさんは言った。
「でんも、そんれにしちゃ、戻ってくんのが早かったでな」
「月に一度とはいえ、この町のことは知り尽くしてるからね。彼が向かったのは間違いなくこの宿場町最大の宿屋――ホテル・マクシミリアンだった」
「……それだけでマクシミリアンのスパイだと決めつけるのは……」
気の毒そうな顔をさせてレイナ先輩が言った。
サラも同じような気持ちだった。
いくら何でも話が飛躍しすぎている。
「それだけじゃないわよ。あんたたち、気付かなかった?」
「何がでしょ?」
「あのお客さん、上着は確かにずいぶんぼろかったけど、中の服装はどこの社交界に出しても遜色ないほどだったのよ」
そうだったのか、思い返してもわからなかった。
さすがにマリリンはよくお客さんのことを見ている。
「それに、夜中に夜食を注文してきたんだけど、あたしが持って行っても驚かなかったのよ。普通のお客さんだったら、夜中にあたしが接客したら気絶ものよ」
「そう思ってんなら、なんでマリリンが行くんだべ」
レイナ先輩も首を縦に振って同意していた。
「いやあねぇ、ちょっと可愛い坊やだったからに決まってるじゃない」
マリリン一人だけが「ガハハ」と笑っていて、サラたちはもちろんフローレンスさんも冷や汗をかいて苦笑いしていた。
「と、とにかく気をつけた方がいいんじゃないか? マリリン亭がマクシミリアンに目をつけられたんだとしたら、厄介なことにしかならないからね」
きざったらしく髪をいじりながらフローレンスさんは言った。
しかし――。
「そんなこつ、わだすにはどーでもいいけんどね」
サラにしてみればだからなんだという話だった。
サラは一介のルームメイドでしかない。
「そうですね」
レイナ先輩も同じ考えだった。
「……そうね、考えてみればどうでもいいことだわ」
腕を組みながらマリリンまで。
「って、マリリンはもっど真剣に考えねばいけねんじゃね?」
「そうは言ってもねえ、世の中なるようにしかならないわよ」
「……いったい、僕はなんのために朝早くから男の後なんかつけたんだ……」
めまいを起こしそうな表情でフローレンスさんはつぶやいた。
十時過ぎ、フローレンスはなんだか昨日の演奏の後よりも疲れたような表情でチェックアウトしていった。
これで、今日のルームメイドとしての仕事は終わり。
そして、今日は週に一度の酒場ホールがお休みの日でもある。
宿屋の受付はマリリンがやるからサラたち三人のメイドはお休みということになる。
とはいっても、これといってサラには用事なんかない。
酒場ホールの椅子にかけながらお休みをどう使うか考えた。
「すっかし、部屋ん中で寝とんのもなぁ……」
出かけようと思えば馬車で近くの町まで行く金はあるし、遊ぶ金もある。
何しろ給料のほとんどを貯金しているのだ。
別に何か目的があって貯めているわけではない。
むしろ、使い道がないから勝手に貯まっていってしまうだけ。
服は着られる物があればいいし、住み込みだから家賃はかからない、食費もほとんど賄いですませている。
趣味でもあれば良いんだけれど、字を書くことさえできないサラには……。
「そんだ、またレイナ先輩に字でも教えてもらうっぺな」
やること、やりたいことは見つかったが、やはり金のかからないことだった。
……いっそのことレイナ先輩に字を教えてもらっているお礼にお金を払うのはどうだろう。
「ぜってー受け取ってくんねーべな」
サラは立ち上がってルームメイドの部屋へ向かった。
三階まで一気に階段を駆け上がり、自分たちの部屋の前まで来て、少しだけ忍び足になる。
確かまだリータ先輩は寝ているだろう。
そっと扉を開けると、やはりリータ先輩は寝ていた。
「……あんれ……」
部屋にいたのはリータ先輩だけだった。
もしかしたら、レイナ先輩には何か用事があって、もう出かけてしまったのかも知れない。
そうだとしたら仕方ない。
レイナ先輩にも都合というものがある。
約束していたならまだしも、ついさっき勝手に決めたことだ。
潔く諦める。
「あら? サラちゃん、こんなところにいたんですね」
不意に背後から声をかけられた。
振り返ると、廊下の先――階段の辺りにレイナ先輩が立っていた。
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