第2話
「みんなー、そろそろお昼ご飯にするわよー」
野太いマリリンの声がマリリン亭に響き渡った。
もうそんな時間だったのかと、サラは急いでキッチンに向かった。
仕事の時間が重ならない限り、基本的に従業員は揃って昼食を食べる。
今日のように、前日に宿泊客がいない時は、必ず全員一緒になる。
その方が効率がいい、というのはマリリンの話だが、実際にはみんな一緒の方が食事が楽しいからだと思う。
酒場ホールのテーブルに、昼食のサンドウィッチが置かれた、
マリリン、リータ先輩、レイナ先輩、サラ、そしてコックのジョニーさん。
みんな揃って「いただきます」を言った。
このサンドウィッチもそうだけど、マリリン亭の料理はほとんどコックのジョニーさんが作っている。
その料理のおいしさは、サラが知る限り世界一だった。
「ねえ、サラ。あんたさっきもそれ食べたでしょ。少しは遠慮しなさいよ」
ピーナッツバターのサンドウィッチだけ食べていたら、向かいに座っていたリータ先輩が文句を言ってきた。
「だったら、確保しておけばえーでねーの。こーいうんは早い者勝ちだで」
マリリン亭のピーナッツバターは自家製で、売っているものとはひと味もふた味も違う。
サンドウィッチ自体、賄いで出すのがほとんどでお客さんには出さないのだけど、常連のお客さんはわざわざこれを頼んだりするほど人気のメニューだった。……正確には、裏メニュー、なのかな。
もちろん、従業員の間でも人気だ。
「まあ、サラの言う通りね」
女将であるマリリンの許しを得たので、サラは残っていた最後の一つをとろうと手を伸ばした。
リータ先輩も取りに来るかと思ったら、苦虫を噛み潰したような表情をさせていただけだった。
「リータ先輩、いらねーのか?」
「食べたくても食べられないのよ。カロリーを考えたらね」
恨みがましくそう言って、そっぽを向いてしまった。
今日が演芸の日で、リータ先輩は派手な衣装で踊るものだから、気を遣わなきゃならないことがあるようだ。
それとはまったく関係のないサラは、美味しく最後のピーナッツバターのサンドウィッチを頰張るのだった。
「太って後悔すればいいわ」
リータ先輩の捨て台詞は、みんなを笑わせた。
「そういえば、さっき妙な歌を歌ってたのは誰?」
コックのジョニーさんが後片付けを始めて、他のみんなは食休みをとっていたら、マリリンが思い出したように言った。
「あ、それ私も聞いたわ」
リータ先輩も聞いたらしい。
「妙な歌? ってなんだべ? わだすは聞ーてねーけど。レイナ先輩は?」
「へ? そ、そうですね。どうだったかしら……」
話の輪から外れていたレイナ先輩に話を振っただけなのに、はっきりしない声で妙にうろたえていた。
「あんたたちの誰かじゃないの? 裏庭の方から聞こえたような気がしたんだけど」
マリリンにそう言われて、サラはピンと閃いた。
「マリリン、そんりゃ妙な歌じゃなくて、きっどわだすの歌ですんよ」
「あら、サラだったの? ダメよ、レイナの練習の邪魔をしちゃ」
「――は? なーに言ってんだ。わだすはレイナ先輩のお手伝いをせーと……」
「馬鹿ねえ。あんな音痴な歌じゃ、腕のいいプロだって調子を狂わせちゃうわよ」
ガハハと声を上げてマリリンは笑っていた。
……ってことは、サラの歌がレイナ先輩の音程を狂わせてしまったということか?
「さ、そろそろお昼休みも終わりよ。午後の受付はサラにお願いするわね。リータとレイナは演芸の練習をしっかりね」
仕事の指示を出して、マリリンはキッチンへ行った。
酒場ホールに残された三人のルームメイド兼ウェイトレスは互いに顔を見合わせていた。
「……サ、サラちゃん。あまり気にしないでね。私の腕が未熟だっただけだから」
「気にするもなんも、わだす……歌下手だったんか?」
改めて聞いたら、リータ先輩が思いきりずっこけていた。
「あんたねえ、マリリンがあれほどはっきり言ったのに、まだ自覚してないの? サラの神経の図太さには、呆れるとかいうレベルじゃないわね」
「いんやー、レイナ先輩だけじゃのーてリータ先輩にまで誉められっとは、思ってもみなかっただや」
「誉めてないっ!」
強い口調でそう言って、リータ先輩は舞台で練習を始めた。
「ほんなら、わだすも仕事に戻らねーと」
宿屋の受付はサラ一人だけのようだし、ここで油を売っていると昨日に続いて今日も宿泊客ゼロになってしまう。
それだけは、避けなければならない。マリリン亭のルームメイドの一人としては。
「ほんじゃ、レイナ先輩もがんばりーや」
「あ、はい」
さっきまでの慌てふためいた様子はなく、レイナ先輩はホッとしたような表情で返事をした。
それを見てサラも安心して仕事に向かう。
宿屋の受付は、玄関の正面にある。
それはこの一階フロアの入り口からすぐのところだけど、酒場ホールの方も見ようと思えば見える。
さっきは失敗して追い出されてしまったけど、この受付にいることがサラの仕事である以上、リータ先輩だって今度は追い出したりはしなかった。
かといって、あまりじろじろ見るのはよくないだろう。
気になりながらも、受付の席に座って窓から外を眺めることにした。
これでたくさんお客さんが来れば、何も気にする必要はなくなるんだけど、そう簡単にはいかなかった。
宿場町の中心部から外れているとはいえ、マリリン亭も表通りに面して建てられてはいる。
窓から見える人の流れもこの時間になってくるとさすがに増えてくるが……。
だいたいの人は、この辺りに来るまでに今晩の宿屋を決めてしまっている。
あるいは泊まらずに森と山を越える覚悟で国境の方へ行くつもりなのか、それとも野宿するつもりなのか。
マリリン亭には部屋が十以上あるのだが、満室になったことはなかった。
サラにはマリリン亭の経営状況なんてものはわからないけど、酒場の稼ぎで成り立っているのだということくらいはわかっていた。
この宿場町の人には、マリリン亭が酒場兼宿屋だってことを忘れている人だっているくらいなんだから。
窓の向こうに見える人々は、馬車に荷物を積んだ商人だったり、剣を担いだ旅の冒険者だったり、マントに身を包んだ魔道士だったり、宿場町だけあって実に多種多様だった。
ふと、遠くからヴァイオリンの音色が響いてくる。
きっと裏庭でレイナ先輩が練習を再開させたのだろう。
その音色はサラが歌を重ねる前と変わらず美しいものだった。
弦の調整が上手くいったのか、それとも単に調子を取り戻しただけなのかはわからないけど。
酒場ホール内には、ずっとステップを踏むレイナ先輩の足音が軽やかに踊っていた。
音から聞こえてくる先輩たちの様子を羨ましいと思いながらも、ただ窓の外を見るしかない。
……いつしか、二つの音色は重なり合う。
二人とも別々に芸を見せるというのに、まるで示し合わせたかのように演奏と踊りが重なっているように感じられた。
その時、さらに別の音が混ざってきた。
――ポロロン、と切なげに弦を弾く音。
「――君はなぜ、そんな瞳をしているの~」
おまけに歌まで聞こえてくる。
「――どうして僕にはわからないのか~」
語尾を響かせハープの音色に重ねる独特の歌い方。
一度聞いたら忘れない。
サラは受付から出て、玄関の扉を開けた。
窓から確認しなくても誰が来たのかはわかった。
そして、その誰かは演奏しているのだから、両手がふさがっていて扉が開けられるはずないのだ。
扉を開けると、果たしてそこには自称吟遊詩人で、マリリン亭の常連客の一人――フローレンス=フォスターがハープを演奏しながら立っていた。
「いらっしゃいまし」
「――この想いが~」
「――届かぬものだと~」
「――神が決めたのだとしても~」
「――永遠の愛に違いはない~」
まだ演芸は始まってもいないのに、フローレンスさんのパフォーマンスは本番そのものだった。
「あんの……フローレンスさん?」
「やあ、久しぶりだね。サラちゃん」
そう言いながらフローレンスさんは跪いてサラの手の甲にキスをした。
「相変わらず軽いっぺなー」
「そうかい? 君も相変わらず飾りっ気がなくて可愛らしいね」
「それ、誉めてるんだべか?」
「ああ、最高の誉め言葉さ」
フローレンスさんは立ち上がって髪をかき上げた。ふわりと石けんの香りが舞う。
長いストレートの黒髪が揺れる。耳の辺りだけ小さく三つ編みにしていた。
ゆったりとした布の服を、全身を包み込むように着ているからわかりづらいが、色白の肌はゆで卵のよう。
まつげが細長く、おまけに切れ長の目。背は高いが線が細い。
一見すると女性にしか見えない。……マジマジと見ても女性にしか見えないかも。
しかし、間違いなく男性だった。
「それで、さっきの歌はどうだったかな? 君のために一曲奏でてみたんだけど」
「まーた、そっだらこど言って。わだすなんか相手にせーもん」
フローレンスさんが冗談を言うのはいつものことなので、いい加減あしらい方も覚えた。
サラは背中を叩きながら笑いかけると、フローレンスさんも苦笑いで応えた。
「あ、ははっ……、冗談のつもりじゃなかったんだけどね。でもまあ、君が元気ならそれでいいさ」
「今日は泊まってくんけ?」
「ああ、もちろん。それから――」
「わーってる。今日の演芸に参加すっぺ? マリリンにはわだすから話しておくだ」
演芸の日は決まっているので、こうして旅の吟遊詩人なんかがその日に合わせてふらりとやってくることもある。
宿場町の中心にある、この宿場町――いや、この国一番といっても過言ではない高級宿屋、ホテル・マクシミリアンくらいになると、専属の芸人を雇っているみたいだけど。
このマリリン亭は来る者拒まず、宿泊するだけで誰でも演芸に参加することができる。
ちなみに、演芸を見るのにお客さんは何か特別に金を払う必要はないが、演芸に対してお捻りがあるので、上手い芸を持っている芸人なら宿泊していってもプラスの収支で泊まれる。
フローレンスさんにはファンもいるし、一晩でも結構稼げるはずだ。
となると、今日の酒場はいつもよりも混むかも知れない。
「あら? 騒がしいと思ったらフローレンスじゃない。久しぶりね」
いつの間にか練習を中断したのか、リータ先輩がタオルで汗を拭きながら受付のところまでやってきていた。
「これはこれは、リティーシャさんじゃありませんか。あれ? もしかしてまた若返りましたか? 三週間前にお会いした時よりも一層可愛らしく見えるのですが」
「……それ、なんか嫌味に聞こえるんだけど。まあいいわ。今日の演芸に参加しに来たのよね」
「ええ。それに、マリリン亭は僕の心のオアシスですから。一ヶ月に一回は来ないと落ち着かないんですよ」
「あーら、そう言ってくれるとうれしいわぁ」
「――うっ」
派手な登場をしたからか、キッチンにいたマリリンまで受付に呼んでしまったようだ。
フローレンスさんはマリリンを見るなり、サラの後ろに隠れた。
サラがマリリン亭に雇われるようになる前から、フローレンスさんはここで月に一度演奏をしていたというのに、未だにマリリンが苦手らしい。
これって結構失礼なことなんだけど、マリリンはあまり気にしていなかった。
フローレンスさんはマリリンのお気に入りだからだ。
それが益々フローレンスさんに苦手意識を植え付けてしまってもいるんだろうけど。
「そ、それじゃあ僕は部屋で準備をしてきます」
それだけ言って、サラから鍵を受け取ると、そそくさと部屋に向かってしまった。
そうして、夕方になると酒場の開店である。
「おーいサラちゃん、こっちにも酒を持ってきてくれないか」
「はい、いますぐ」
酒場ホールを所狭しとサラは駆け回っていた。
フローレンスさんの参加は思っていた以上に客足を増やした。
一応先輩たちも芸をしていない時はウェイトレスをやることにはなっている。
だが、まだ演芸が始まる時間になっていなくて、三人とも舞台裏で控えている状態なのだ。
だから、ここはサラががんばらなきゃならないのである。
これから先輩たちだって舞台の上でがんばらなきゃならないのだから。
「サラ、かぼちゃの天ぷらできたわよ、あっちの席へ持っていって」
カウンターからマリリンが言う。
「あ、はい」
さっきから注文の繰り返しと返事しかしていない。
演芸が始まるまでの時間、サラは全ての席に酒とおつまみを運んだ。
「大変長らくお待たせいたしました。これより私たちウェイトレスと飛び入り参加の吟遊詩人による芸をお見せしたと思います。皆様、舞台の幕が上がりましたら拍手をお願いいたします」
ホールに響くはっきりとした声でレイナ先輩が始まりのあいさつをした。
すると、まだ幕が上がっていないのにそこかしこからすでに拍手がわき起こる。
芸が始まると注文は少なくなる。
サラもようやく落ち着くことができる。
壁に寄りかかりながらホール全体を見渡して、注文がないか気を配る。
芸が始まるとさっきのように大声で注文するわけにはいかなくなるから、注文があるお客さんは手を上げることになっていた。
こうして全体を見渡してみると、今日は常連客の割合が少なかった。
演芸目当てのお客さんが多数来ているのだろう。
ふとその時、一人のお客さんに目が止まった。
注文のために手を上げていたからではない。
なんていうか、アンバランスだったのだ。
きっちりとした真ん中分けの黒髪。キリリとして小綺麗な顔。……にもかかわらず旅の冒険者のような服装は汚れていてみすぼらしい。
じろじろと見ていたわけではなかったが、サラはそのお客さんと目があった。
そのお客さんはサラを見るなり手招きをして呼んだ。
もしかしたら不快な思いをさせてしまったのだろうか。
とにかく呼ばれてしまっては行かないわけにはいかない。
「失礼いだします。なにかご用でしょーか?」
マニュアル通りに聞くと、お客さんはさらに手招きをして、小声で耳打ちしてきた。
「ここ最近、妙な客は泊まりに来なかったか?」
「――は?」
言っている意味がよくわからなかったので、反射的に声を上げてしまった。
しかし、幸いなことにみんな先輩たちの芸に夢中で、サラの素っ頓狂な声に気付いたお客さんはいなかった。
「そうだな、例えば……君の印象に残るような客は泊まりに来なかったか」
「いいえ、わだすが覚えでる限りでは……、この一週間はお客さん自体少ねーし」
「そうか……」
さすがに言うのは悪かったので思うだけにしたが、妙なお客さんという意味では目の前のこの人が一番妙なお客さんだった。
「そうだ、今日ここに泊まっていきたいのだが、部屋は空いているかね」
「そんでしたら、選びほーだいですだ」
「そ、そうか。だったら一番高級な部屋を用意してくれ、金はこの通りいくらでもある」
そう言って布の袋を開けて見せてきた。
中には見たこともない量の金貨が一杯入っていた。
「あんれまあ……ほんじゃ、すぐに用意しますんでな」
サラは訝しげな表情を浮かべながら、宿屋の受付の方へ行った。
金を見せられてはどんなに妙なお客さんでもお客さんとして扱わなければならない。
それにしても、あれだけ金があるならもっと高級なところに泊まればいいのに。
……いや、よく考えればあれだけ妙なお客さんなんだ、何か訳ありなのかも知れない。
マリリン亭にはよくそういうお客さんも泊まるし。
受付の奥から部屋の鍵と宿帳を持って妙なお客さんのところへ行くと、途中リータ先輩とすれ違った。
どうやらリータ先輩の出番は終わってウェイトレスに戻っていたみたい。
「ねえ、サラ。あんたもしかしてあの窓際の変な客のところにそれを持っていくの?」
チラリとリータ先輩が目配せをしたのは、すでに宿泊することになっている、例の妙なお客さんのことだった。
「そんだんども……なんか?」
「ううん、ただちょっと……っていうか、あの人泊まるんだ……」
リータ先輩の訝しげな表情は、どことなくさっきの自分に重なる。
「……マリリンに報告しておいたほうが、えーべか?」
「……いいわ、それは私から話しておくから。あんたはさっさとそれを持っていってあげなさい」
リータ先輩はなおも不思議そうな表情をさせてカウンターのマリリンのところへ行った。
サラはもちろん言いつけ通り妙なお客さんに鍵を渡して宿帳に名前の記入をしてもらった。
「それでは銀貨一枚頂戴いたします」
「ぎ、銀貨一枚? ここで一番高級な部屋というのは、金貨一枚もしないのかね」
「ええ、そうだども」
「じゃあ、これで」
そう言うと、さっき見せた袋ではなく、懐のポケットから銀貨を一枚取り出してテーブルに置いた。
「あんりがとうごぜえます。そんれではお部屋までご案内――」
「いや、結構だ」
初めてのお客さんだというのに、案内を断って二階へと向かった。
「お客さん、ちょいとお待ちを」
「なんだね?」
「お酒のお代を頂戴してねーだ」
「む……いくらだ?」
「銅貨二枚ですだ」
妙なお客さんは懐から出した金をサラに放り投げた。
そして、今度こそ足早に階段を上っていった。
お陰であいさつをすることはできなかった。
今日の宿泊客は二人。
フローレンスさんと妙なお客さんことギルバートさん。
ちなみに演芸の方はどうなったのかというと、フローレンスさんが加わってくれた効果か大成功に終わった。
フローレンスさん自身もだいぶ稼げたみたいでご機嫌だった。
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