第23話 雪原のクリスチーナ

 風が唸りを上げる。


 斜め下から迫る気配に、ンディールは正拳突きを叩き込んだ。


 目には見えない何かの断片が、コンクリートの壁面を花火のようにえぐり取りながら散る。


 宙に舞う塵芥、その中を飛び、ンディールの頭上を飛び越え、背後に降り立つ影。


 烈脚一閃、ンディールの後ろ回し蹴りが宙を裂く。


 だが間一髪それをかわすと、ヨウジは九階のフロアに飛び込んだ。後を追いフロアに入ったンディールの頭を見えない巨大な手が掴み、そのまま壁に叩きつける。


 しかし相手は六部衆のグランアーマー。この程度ではノーダメージ。


「なるほど、それがおまえの弱点か」


 ンディールは手刀で見えない巨大な手を斬り裂いた。


「おまえのその能力を使いこなすためには、充分な空間の広さが必要とされるのだな」

「ご明察」


 ヨウジは体を半身に傾けると、右手を前に、左手を後ろに小さく開く。それは、ヨウジが初めて見せる、構えらしい構えであった。


「と言いたいところだが、解答としては三十点だ。赤点だな。そんな事では僕には勝てんぞ」


 だがンディールは言い切った。


「いま私がなすべきは、おまえを捕縛し、捜査機関へ引き渡す事。それが叶うなら、自らの勝利など要らぬ」

「クソ面白くもない理屈だ。よほど飼い犬根性が染み付いていると見える」


 だが手強い。その一言を、ヨウジは飲み込んだ。


 ンディールが水平に跳び一気に間合いを詰める。対するヨウジは微動だにしない。


 漆黒の右腕がジャブを放つ。鉄を斬り裂く亜音速のジャブである。ヨウジは、ぬるりとこれをかわし、反歩下がる。


 しかしその下がった足が床に着く瞬間を狙いすまして、ンディールは踏み付けた。ところがこれまたヨウジは、ぬるりとかわす。


 ならばと手刀で腹を突く。ぬるり、かわされる。まるでヨウジの全身が透明な粘液に包まれているかの如く、掴みどころがない。ンディールが攻めあぐねた、そのとき。


 ヨウジの右手が振られた。超音速で撃ち込まれる見えない砲弾。


 かろうじて両腕でガードしたものの、ンディールの体は十メートルほど押し下げられてしまった。


 地球最強レベルのグランアーマーをもってしてもなお、腕が衝撃にしびれる。熱を帯びた空気が陽炎のように揺らめいた。


「光栄に思うがいい」


 ヨウジの言葉は、いささか忌々しげに聞こえる。


「僕が実戦で流体防御を使ったのはこれが初めてだ。とっておきだったのだがな」


 流体防御。ンディールはその言葉を頭に刻みつけた。


「無理をして使う事はあるまい」


「戦いには状況があり、道具には使い方がある。狭い場所で戦うのなら、道具の選択も変えねばならん。まして相手がそれなりなのであれば、出し惜しみもしていられん」


 ンディールは気付いた。これは、ヨウジなりの賛辞なのだと。


「で、どうする。貴様に戦う意思がないのであれば、これでお開きにしてやってもいいが」


 その一言に、ンディールの拳は波を打った。そして鋭い突起を作り出す。


「おまえの防御、私の拳が斬り裂こう」

「その意気やよし」


 ヨウジは楽しげにニッと笑った。




「打ち上げまで百九十秒。カウントダウンを開始します。百八十五、百八十四……」


 合成音声のアナウンスが、シャトル内に流れる。定員四名の超小型シャトルにはアカリとヒカルだけが乗り込み、斜め上を向いて座っていた。


 操縦はオートパイロット。屋上のシャッターはすでに解放されて、陽の光が発射場内を照らしている。


「ねえ、お姉ちゃん」

「なあに」


「私、お姉ちゃんの隣に座るのって、初めてだよね」

「そんな事ないわよ。ヒカルは小さいとき、ずっと私の隣に座ってたんだから」


「そうなの?」

「そうよ、あなたお姉ちゃん子だったのよ」


「覚えてないなあ」

「もう随分前だものね」


「ねえ」

「ん?」


「ヨウ兄ちゃんの事だけど」

「ヨウジがどうしたの」


「本当に私を取り返すために暴れてるのかなあ」

「……どうしてそう思うの」


「だって、ヨウ兄ちゃん無茶苦茶だもん。そんなわかりやすい理由で暴れるなんて思えなくて」

「でも暴れてるのは事実よ」


「暴れてる理由は、もっとどうでもいい、くだらない事なんじゃないかなあ。だから」

「だから?」


「私が円卓に行かなきゃならない理由は、多分ないんじゃないかと思う」

「理由がないと思うのに、何故あなたはこのシャトルに乗ったの」


「だって私が行かなきゃ、お姉ちゃんが困るんでしょ」


 アカリは息を呑んで眼を閉じた。ヒカルの顔が見られなかった。


「発射まで百秒、エンジンを点火します」


 カウントダウンの続く機内で、ヒカルはアカリの手を握った。




 首相官邸の執務室では、リタが顔面を蒼白にして電話を受けていた。


「そう、そう、わかりました。引き続き監視を続けてください。お願いします」


 受話器を置き、消え入るような息を吐く。


「極東司令部庁舎は非常体勢のまま膠着。内部で何が起きているのかは不明だそうよ」


 イナズマはしばし目を閉じ、考え込んでいたが、不意に大刀を手に立ち上がった。


「どうするつもり」


 不安気なリタに、イナズマは静かな口調でこう答えた。


「放ってはおけない」

「ちょっと待って。いまはこの国が亡びるかどうかの瀬戸際なの」


「そう思えばこそ、今日まで耐えてきた。だが、それが何を生んだ」


 リタは答えない。ただ悲しい目でイナズマを見つめるだけだ。


 イナズマは、優しい眼差しをリタに返した。


「超人に親はいない。だから親が如何にあるべきかを私は知らない。だが、きっと親とはこういうものだと思う」


 と、突然。執務室は暗闇に飲み込まれた。窓から入っていたはずの日の光すら失われている。


 いや、真っ暗闇ではない。明かりはある。


 どこから入ってきたのか、ソファの向こうに一台のバイクが停まり、ライトが点いていた。二人はそのバイクに見覚えがある。


 バイクだけではない。目が暗さに慣れると、周囲の様子が見えてくる。そこは執務室ではなかった。


 降りすさぶ雪、延々と広がる雪原、ところどころに凍りついた背の高い樹が立ち、遠くには山脈も見える。それは二人の記憶にある、あのシベリアの永久凍土の上。


 実際の気温は下がっていないのに、脳が寒さを感じてしまう。イナズマとリタは、震えながら寄り添った。


「そう、これはあの日のシベリアです」


 その声に二人は振り返る。背後に立っていたのは、長い銀色の髪を揺らした美しい女。


「誰だ」


 誰何すいかするイナズマに、女は応じた。


「私はワーディ。ブノノク三賢者の一人です」

「三賢者、さま? 何故そんな方がここへ」


 リタの問いに、ワーディは答えた。


「リタ、イナズマ、あなた達には以前から会いたいと思っていました。ブノノクのワーディとしてではなく」


 そして小さく微笑んだ。


「クリスチーナ・ベトロスカヤとして」


 クリスチーナ・ベトロスカヤ。その名前は、まるで後頭部を殴られたかのような衝撃を二人に与えた。


「クリスチーナ、まさか、あのクリスチーナか」


 イナズマの声は僅かに震えていた。それは雪原の景色から感じる寒さが故か、それとも。女は笑顔でうなずく。


「そう、あなた達の知っている、そのクリスチーナ・ベトロスカヤです」

「そんな馬鹿な、クリスチーナは死んだはずです」


 リタが叫ぶ。そう、彼らの知っている、名前だけは知っているクリスチーナ・ベトロスカヤは死んだはずだった。より正確に言うなら、殺されたはずだった。


 クリスチーナ・ベトロスカヤは、アレクセイ・シュキーチンの恋人であり、グランの共同研究者であり、そして産業スパイでもあった。


 彼女はグランの秘密を盗み出し、それを知ったボック財団の放った刺客に殺された。それがイナズマとリタの知る、クリスチーナに関するすべてである。


 結果、アレクセイは狂い、世界を滅ぼさんと企てたのだ。


 だからアレクセイを、イナズマは斬った。世界を守るために。なのに、そのきっかけになったクリスチーナが生きているという。にわかには信じられないのも無理はない。


「それが、もしそれが本当なら、何故だ、何故私はアレクセイを斬らねばならなかった。何故アレクセイを狂うがままに放置した。何故アレクセイを助けなかったのだ!」


 イナズマの怒りはもっともである。クリスチーナが死ななければ、死んだとアレクセイが思い込まなければ、イナズマは友を斬り殺さずに済んだのだから。


「私は彼に、ブノノクと同じになる事を望みました。感情を乗り越え、技術と論理に生きる事を期待したのです。そのために彼には『死による喪失』を与えました」

「試したという事か」


「はい、試しました。結果、彼は想定外の方向に暴走し、制御不能となりました」

「制御不能……だから殺させたのか」


「それは私の判断ではありません。ブノノクには『自暴自棄』という概念がありません。故に対処法が不明でした。よってあなた方の判断を優先しました」

「そんなときだけ地球人のせいにするんですか、酷い」


 リタの脳裏には、はっきりと浮かんでいた。あのときのイナズマの顔が。天頂眼の封印を決意させたあの顔が。


「けれど結果的に的確な判断でした。地球は救われたのですから」


 そう微笑むクリスチーナに、リタは異星人――星を異にする人――という言葉の意味を痛感した。


「昔話はこれくらいにしましょうか。今日はあなた方二人にお願いがあって来ました」

「お願い?」


 リタは眉を寄せた。そう言えば、クリスチーナが突然現れた理由を、まだ聞いていない。


「ヨウジの邪魔をしないで欲しいのです」


 ブノノクの女の口から突然出て来た息子の名前に、リタは困惑を隠せなかった。


「ヨウジを知っているのですか」

「神討ヨウジはブノノクの良き理解者であり、協力者でもあります」


 協力という言葉がリタの癇に障る。


「ヨウジに何をさせているの」


 クリスチーナは首を振る。


「それは言えません。けれど自治惑星の安定的運用に多大な貢献をしてくれているのは確かです」


 イナズマはアマンダルの言葉を思い出していた。『岩の蝗』を一晩で、たった一人で壊滅させた風の魔神。それがもし、ヨウジの事だとするならば。ヨウジがいま姿を見せた理由は。


「狙いはオシリスか。だが、ならば何故六部衆と戦わせる」


 しかしクリスチーナはそれに答えなかった。


「明日の朝」


 クリスチーナの姿が徐々に消えて行く。


「明日の朝までお待ちなさい」


 執務室の景色が戻って来た。クリスチーナと、そしてシベリアの雪原は消え失せた。リタとイナズマの体の内に氷の冷たさを残して。

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