第20話 誘惑
隠道インカは立ち尽くしていた。
手には掃除機を持ちながらスイッチも入れず、ただぼうっと立っていた。
三年前、インカが御館様から配下の大政小政と共に命じられたのは神討家の警護。しかしイナズマに警護など不要だったし、リタはいつもそのイナズマが護っていた。必定、インカたちの仕事はヒカルの警護になる。
この三年間、インカたちは懸命にヒカルを護り続けてきた。神討家の皆からの信頼も勝ち得た。成すべき仕事をまっとうしていたはずだった。それがいまはどうだ。いま自分はいったい何をしている。
手に持った掃除機を壁に投げつけそうになったが、やめた。それは自分の成すべき事ではない。だが成すべき事とは何だ。
「暇そうだな」
その声にインカは大きく反応した。後ろを取られて気付かなかった事実に愕然とする。その驚く顔にヨウジはニッと歯を見せた。
「注意力散漫ないまの貴様なら、子供でも後ろを取れるぞ」
「うるさい、おまえなんかに何がわかる」
「何だ、わかって欲しいのか」
「違う、黙れ馬鹿」
何故だろう、目に涙が浮かんでくる。インカはそれを必死で堪えた。そのとき、不意にヨウジが何かを投げて寄越した。思わず受け取ったそれは掌に乗るくらいの大きさの立方体。
「開けてみろ」
そう言われて蓋を開けてみると、そこにあったのは、銀色に輝く指輪。インカは顔に血が上った。
「な、何のつもりだ、こんなときに」
「貴様、何を勘違いしている。よく見ろ、指輪は二つあるだろう」
インカはハッとする。二つの指輪が意味するものとは。
「それを人差指と中指に嵌めろ」
これは、まさか。そうなのか。そういう事なのか。インカの手は震えた。指輪を掴もうとするが、上手く掴めない。
「ああ、もう貸せ」
焦れたヨウジは指輪をつまんで箱を投げ捨てた。インカの右手を強引に取ると、中指と人差指に指輪をねじ込む。二つの指輪は誂えたように、隙間なくインカの指に嵌まった。
「さあ、指輪を擦り合わせろ」
その声は聞こえる。だがインカには、もうヨウジの顔が見えていない。
視界にあるのは二つの指輪だけ。インカは己自身に問うた。これを受け入れて良いのかと。内なる心は答えた。受け入れよ、求めよと。
心の声のままに指輪を擦り合わせる。キュン、耳元で小さな音がした。その瞬間、小さな小さな無数の白い旗が全身の表面ではためき、インカは白に染められる。
全身一点の曇りもない、大理石のビーナス像を思わせる、純白のグランアーマー。
「それを貴様にくれてやろう」
耳に響くヨウジの声が、まるで全身を侵す毒のように、グランアーマーの内側にあるインカの体と心を縛り上げて行った。
「僕はこれからヒカルに会いに行く。ついて来るも来ないも、貴様の自由だ」
地球圏において最大の総資産額を誇る企業集団は、ボック財団である。
水星グループはその点、少なからず見劣りはするものの、それでもグランホーリー社からのグラン材供給を受けて家電から船舶に至るまで様々な工業製品を製造する企業群を傘下に保有し、上位十指には辛うじて入る規模があった。
その水星グループのエンブレムが描かれたコンテナが、西日本の宇宙港に停泊中のシャトルに積み込まれていた。搬出元は水星建設、搬入先は――極秘ではあったが――静止衛星軌道上のパンケーキ、すなわち円卓である。
水星建設は現在、水星商事と共同で、円卓内のリラクゼーションエリアに公園設備を造成する試みを実施している。地上の公園にある芝生や花壇、噴水や立木といった物を、人工重力下においても設置可能であるかの実証実験である。
ただ実験とは言っても、それは円卓内で働く職員の福利厚生を一部肩代わりする意味合いを持つ。さらに実験に関わる費用は全て水星グループが賄うのは勿論、エリアの利用料金も別に支払う。
直接的および間接的に六部衆側に渡る金額は莫大なものになるが、天裁六部衆の影響力を考えれば、水星グループにとっては微々たる出費と言って良かった。
そのコンテナに近付くのは、宇宙港の警備員。コンテナの格納完了前にハンドスキャナで内部をスキャンし、中の荷物が申請書通りかどうか確認するのが仕事である。
警備員はスキャナをコンテナに向けた。しかし。
そのままスキャナの読み取り部分に白いカードを押し当てて、読み取りボタンを押した。どういう理屈かは知らないが、これでスキャナは異常なしと判断するはずだ。そう聞いている。
その情報通りにスキャナは青いランプを灯した。そして申請書の『異常なし』の欄にチェックを入れる。電子申請書はそれを読み取り、自動でデータを搬入先へ送信した。
これでいい。これだけでいいのだ。たった一度こうするだけで、彼のギャンブルでの借金が棒引きになる。
何て事はない。どうせ何も起きない。全て世は事もなし。間もなく格納作業は完了し、シャトルは明日の朝には発射シークエンスに入る。自分の平々凡々な人生は、これからも平穏に過ぎて行くに違いない。彼はそう思っていた。
神討家の玄関は、一見すると木の
しかし鍵が掛かっていなければ、ただの玄関である。
無論、オートロックプログラムは働いている。だがその小柄な男は、そんなものはないといった風に、からからと音を立てて玄関を引き開けた。
天裁六部衆の前において、全てのセキュリティプログラムは機能を停止するのだ。
そこに廊下の奥から投げつけられるのはクナイ。眉間をめがけて飛んで来たそれを、小柄なスーツの男、緑璧のリャンは人差指と中指で器用に挟んで止めて見せた。
「危ないのう。いつの間にこんなものを使うようになった」
廊下の奥でヨウジは、さも驚いたというような顔を作っている。
「何だ、どこの変態不審者かと思えばリャンのジジイではないか」
「おまえ、絶対わかってて投げたよね」
「いやあ、驚いた驚いた。さて、僕は忙しいのだ。そこをどいてもらおうか」
「こりゃこりゃ、久しぶりに姿を現したと噂を聞いて遠路はるばる訪ねてきた師匠に向かって、それはなかろう」
「誰が師匠だ、誰が。人聞きの悪い事を言うな。僕は貴様如きを師匠と崇めた事などない」
リャンは一つ、ため息をつく。
「おまえ五年前と何も変わっとらんのう。ワシの弟子ともなれば箔がつくんじゃよ、箔が。世間からの信頼度も変わってくる。人間関係だって円滑になるぞ。女にもモテるし金も儲かる。おまえにとって良い事尽くめじゃろうに何を嫌がるのか」
「札束の風呂にでも入れというのか。いらん。貴様の庇護など僕は必要としていないし、これからも必要としない」
「なあ、そこを何とか。年寄りを助けると思うて弟子になってくれんか」
「何故僕が貴様を助けねばならん。そもそも貴様の弟子にはコルセアがいるだろうが。それで我慢しろ」
「あ」
ピーンと来た。リャンはそんな顔でヨウジを見た。
「そうか、そういう事か。何じゃ、おまえも可愛いところがあるではないか」
「……何が言いたい」
「コルセアに嫉妬しておるんじゃろ」
イラッ。コメカミの血管をブチ切らんばかりの表情で、ヨウジはリャンを睨み付ける。
「貴様、年寄りだと思って下手に出ていれば付け上がりおって」
「いやいやいや、下手には出てないよ、出てないよね?」
風が鳴る。リャンは三十度後ろにのけぞった。目に見えぬ何かが猛烈な速度で通り過ぎて行く。その背後で、戦車の突進に十五分耐える玄関の引き戸が、真っ二つにへし折れた。
「ちったあ手を抜かんかい!」
「黙れ妖怪が!」
ヨウジは前に出る。リャンは右腕を振りかぶっている。
「ワシの距離じゃ!」
かつて神速と呼ばれた右の拳が唸りを上げる。
しかし突き出す拳の先には誰もいなかった。
ヨウジは予備動作なしで飛び上がると天井を滑るように移動する。それにつき従って後を追う白い影。直後、廊下の奥の壁が音を上げて砕け散った。
「百歩拳、確かに見せてもらった」
ヨウジは玄関の外に立っていた。
「衰えていないようで何より。だがいまは急ぐのでな、後片付けは頼んだ」
そう言い残すと、ヨウジは白い影を連れて姿を消した。リャンはつぶやく。
「あの白いの、このワシに気取られんとはいったい何者」
そして辺りを見回した。へし折られ吹き飛ばされた引き戸、四方八方に亀裂の入った廊下の奥の壁。
「後片付けって、ワシがやるの? これ」
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