第17話 水の聖戦士
シロワニ渾身の一撃は、しかしヨウジの作った空気の壁を越えられず、相手には届かない。
二人は二十メートルを落下し、真っ暗闇の海に落ちた。シロワニはそのままダイレクトに水柱を上げ、ヨウジは下に厚い空気の層を作り、衝撃を吸収しながら静かにふんわりと海面に降り立つ。
「あのまま死んでくれれば簡単なのだがな」
海面を緩やかに窪ませながら立ち、心ない事を言うヨウジのすぐ横を、空母が三十ノットで通り過ぎて行く。
「さて、戻るか」
ヨウジが空母の甲板に向かって手を伸ばした瞬間、背後の海中から何かが撃ち出された。だがそれは空中で見えざる手に掴まれて停止する。触れてみれば、細く硬く尖った先端。
「これは
ヨウジは気付いた。その身の周り、空母の作る波が消え去ったベタ凪の海面の下を、何者かがグルグルと回っている事に。
闇に隠れて眼には見えない。だが音がする。おそらくは水面から突き出した三角形の背びれが、高速で水を切る音が。
「ああ、そう言えば水の聖戦士だとか何だとか戯言を抜かしていたな」
ヨウジはフンと鼻を鳴らした。
「あいつのホームグラウンドに引き摺り込まれたという事か。間抜けの分際で小癪な」
水面から何かが噴き上がったような音。
「上か」
ヨウジは頭上に空気の壁を作る。だがそれが
昼ならば、いやせめて月明かりでもあれば、ヨウジにもその姿が見えたであろう。大きな背びれを立て、鋭い歯を剥きだした、全長二メートルを超える青白いサメが。
サメ、すなわちシロワニはヨウジの周りを回った。音が聞こえているのは承知の上、わざと聞かせているのだ。
闇の中から響く水切音は恐怖を呼び、判断を狂わせる。
ヨウジはいま、水平方向三百六十度を水に囲まれている。完全にシロワニのテリトリーの内である。そのセンサーにはヨウジの一挙手一投足がはっきり見えている。
シロワニはヨウジの背後から足を狙った。その鋭い歯で斬り裂こうというのだ。ヨウジは水面を滑るように動き、紙一重でこれをかわした。
しかしシロワニは考える隙を与えない。即座に腹を狙った。これもかわされた。その直後、シロワニはヨウジの頭を狙った。
見えているのなら単調な攻撃と言える。だがいまは水と闇がシロワニの味方だ。
頭への攻撃もギリギリでかわされた。けれどヨウジはバランスを崩した。そしてその身を水の中へ投じてしまったのである。
それは文字通り火の出るような一撃。床を舐めるかの如く低空を飛んで来たジャッカルの攻撃を、イナズマは跳び下がる事でかわした。大刀はまだ抜いていない。
「アマンダル、無事か」
「何をしに来た。助太刀など要らん」
憤るバイソンの前に、スワローが立つ。
「悪いけど、勝負はまた今度にして」
「何があった」
訝しむバイソンに、答えたのはジャッカル。
「エイイチが暴走しやがった。段取りが無茶苦茶だ」
言われてみれば、確かにエイイチの姿がない。そして星辰眼も。
「いま二人はどこにいる」
「甲板に出たとこまでは間違いないと思うんだけど」
スワローは口籠る。さもありなん、イナズマが聞いているのだから。
「娘は甲板だそうだ」
しかしバイソンはそう言うと、突然グランの結合を解いた。カラン、と音を立てて、脇差の先端が落ちる。
「アマンダル、あんた」
言い淀むスワローに、一瞬優しげな笑みを見せた後、アマンダルはイナズマに告げた。
「娘は返す」
ジャッカルは思わず振り返る。
「ええっ、お、おいっ」
「どだい無理な作戦だったのだ。損害を最小限にするにはやむを得ん」
言い切るアマンダルに、ジャッカルとスワローは沈黙した。イナズマは大刀の柄から手を放す。
「信じよう」
「助かる」
アマンダルは小さくうなずいた。
「とりあえず我らは格納庫まで上がるが、おまえはどうする。一緒に来るか」
「いや、少し後からにしよう」
アマンダルはイナズマの背後に目をやると、また一つうなずいた。
「わかった。では先に行く」
三人はイナズマに背を向けて通路の奥へ姿を消した。その直後、イナズマの背後から情けない声が響いて来る。
「痛い痛い痛い」
「さっさと歩け。本当にここに娘がいるんだろうな」
「そういう段取りになってるんですよ、痛い、痛いって」
オシリス兵を連れた軍警官隊が階段を下りて来る。最下層まで降りて来た彼らをイナズマが迎えた。
何人かが思わず銃を向けてしまったのは、イナズマのまとう殺気の残り香のせいだろうか。ンディールが軍警官たちの前に出た。
「ここに敵は」
「もういない」
イナズマは手に折れた脇差を持っていた。その意味するところを、ンディールは察したのか。イナズマは脇差を鞘に収め、階段を上る。
「娘は甲板にいる。急ごう」
ンディールは何かを言いかけて、やめた。
水の中に落ちた獲物を、シロワニのセンサーは全開で捉えた。水に絡まる髪の毛一本一本の動きまでわかるほどに。
全速力の突進。この一撃で全てを終わらせるのだという意思を込めた。
しかしその歯がヨウジに届く寸前、センサーは確かに捉えていた、ニッと歯を剥いたヨウジの笑顔を。
シロワニの聴覚センサーを襲う、低周波の連続する破裂音。それは突然水中に大量の空気が入り込んだ音。
さらに風の唸りが水中に響く。同時に周囲の水が、空気と混じり合いながら渦を巻き始めた。
その渦から逃れるには、シロワニは余りにも中心に近付き過ぎている。
渦は海を貫き天に昇り、竜巻となった。
巻き上げられたシロワニが烈風吹き荒ぶ宙天高くに舞ったとき、目には見えない巨大な手が、むんずとその身体を掴む。竜巻はヨウジの手の中に消え去った。
「貴様は大事な事を忘れている」
ヨウジは水面に立ち、その手を天に向けて伸ばす。
「海の上にも風は吹くのだ」
シロワニは身を
「おまえ、俺の姿を」
「見えていたさ、最初から。いや、感じていたと言うべきかな。何にせよ、貴様の行動など僕にはお見通しだ。見えているはずがないと思い込んでいる間抜け面を想像する事さえ容易なほどにな」
「くそ、ふざけやがって」
「ふざけているのは」
ヨウジは腕を振るった。
「貴様の方だ!」
見えざる巨大な手が高速で水面に突っ込む。砲撃のような音を上げて高く水柱が立った。
耳を澄ます。シロワニの声が聞こえなくなった。しかし海面に浮かぶグランアーマーが結合を解いていない以上、中身はまだ生きている。
そもそも高さ二十メートルから海水面に落ちても無事なのである、容易な事では死ぬまい。
「やれやれ、こんな
シロワニの体を持ち上げると、ヨウジは真っ暗な海原を見つめた。遠くに船を感じる。
「戻るか」
そうつぶやくと、海面を滑るように移動した。
アマンダル達が格納庫から甲板に上がるとすぐ、叩き潰された早期警戒機が目に入った。近付けば、そこには横たわるヒカルの姿が。
「ヒカル!」
慌ててノナが駆け寄る。
「ヒカル、大丈夫? ヒカル……」
そっと抱き起こすと、突然ヒカルの眼が見開かれた。それがまるで灯台のように輝き、照らされたノナの頭の中に数字の羅列が流れ込んで来る。
「おい、ノナ、どうした」
ク・クーが顔をのぞき込む。
「……へ」
十秒ほど、いやもっと短いほんの一瞬だったかもしれないが、ノナはヒカルを腕に抱きながら呆けてしまっていた。
「あれ、あたし、どうしたの?」
「いや、どうしたもこうしたも」
ク・クーが困惑した顔でアマンダルを見た、そのとき。
暗闇の中で、何かが船の縁を掴んだかのような音がした。それに続いて、ごうごうと風の唸る音。
叩き潰された早期警戒機は、しかし未だに幾つかのライトが生き残っていた。その僅かな明かりの中、まるでテレポートでもしてきたかのように突然現れる人影。
一瞬遅れて、鈍い音と共に甲板の上にサメが放り出される。
「シロワニか」
アマンダルは一目で見抜いた。
「ならば、おまえはヨウジだな」
相手はフンと鼻を鳴らす。
「確認するまでもあるまい。一人が立ち、一人が横たわっているのなら、僕は常に立っている。逆はない」
「おいおまえ、まさかエイイチを」
「だとしたら、どうする」
ニッと歯を剥いたヨウジに、ク・クーはいきり立つ。
「てめえ」
「待て。グランアーマーが結合を解いていない以上、エイイチはまだ生きている。シロワニのグランアーマーは頑強だ。生半可な事で殺す事はできん」
そう言って抑えるアマンダルを、ヨウジは露骨につまらないという顔で見つめた。
「殺そうと思えば簡単に殺せるさ。だがそいつには、わざわざ殺すだけの価値はない」
「んだと、てめえ!」
ブチ切れ寸前のク・クーに、アマンダルは顔を顰めた。
「やめろと言うに。ヨウジもやめろ。もはや戦わねばならん理由はない」
意味不明と言いたげなヨウジにアマンダルは告げた。
「妹は返す」
ヨウジは苦笑と共に首をかしげた。
「どういう風の吹き回しだ」
「作戦は失敗した。だから撤退する。
「そりゃあ妹は返してもらうさ。貴様らを叩き潰した後にな」
「それまでヘリの燃料が持つのか」
苦虫を噛み潰した顔とはこうだと言わんばかりの相手に、アマンダルは笑顔を向けた。
「救助は救助、戦争は戦争、分けて考えろ」
「貴様が言うのか貴様が」
突っ込んではみたが、確かにアマンダルの言う通り、いまは分けて考えるしかない。
「わかったなら、妹を受け取れ」
ヨウジはあからさまに渋々といった態度でヒカルに近付き、ノナの腕から受け取る。
「あ、あの」
「何だ」
面倒臭そうに睨むヨウジに、ノナはうつむきがちにこう言った。
「ヒカルに伝えて。ごめん、って」
「約束はできんな」
「うん、わかってる」
「……気が向いたらな」
ノナは一瞬、花のように笑った。
「撤収!」
ンディールの号令一下、軍警官たちはヘリに乗り込む。ヒカルはストレッチャーに乗せられて収容された。
イナズマ、ヨウジ、最後にンディールが乗り込み、ヘリはギュスターブ号を離れた。
残りの燃料は、半分をかなり割り込んでいる。州都に直線で帰投するのはもう無理だ。近くの軍警察基地か空港で燃料を補充してから州都に向かう事になるだろう。
離れ行くヘリを、アマンダルたちは艦橋で見送った。
「対空ミサイル、まだ残ってるぜ」
悔しそうなク・クーを、アマンダルはため息で制した。
「やめておけ。どうせ無駄弾になる」
「あのヨウジか。くそっ、飛び道具が使えねえってのは厄介だな」
「そうだな、敵に回せば厄介だ。だが」
アマンダルは小さく不敵に笑った。
「ヨウジにせよイナズマにせよ、果たしていつまで六部衆の側に立っていられるか。連中の共闘は早晩崩れると見た。例えこちら側に来ないにせよ、あの二人が第三勢力となる可能性はまだある。そのときに漁夫の利を得られるのなら、まだ我らにも上がり目はあろうというものだ」
そんな二人の会話を余所に、ノナは隅っこで端末に数字を打ち込んでいた。
「何やってんだ」
のぞき込むク・クーの顔は押しのけられる。
「あーうるさい、集中してんだから近付くな」
そのとき、エレベーターの扉が開いた。ふらつきながら降りて来たのはエイイチ。
「よー、やっとこさお目覚めか、この野郎。無茶苦茶やりやがって。おまえのおかげで、こちとら敗残兵だ」
エイイチはしばし怒るク・クーを見つめ、アマンダルに視線を移した。
「連中は」
「もうおらん。おまえの妹を返して引き取ってもらった」
「……罰は受ける」
「そうじゃねえだろ」
ク・クーはエイイチの胸倉を掴んだ。
「そこは素直にごめんなさいだろうが。ぶっ飛ばすぞ、てめえ」
その険悪な雰囲気に、ノナの明るい声が割って入る。
「できたー! いやあ、ヒカルに教えられた数字、最初は何のことやらさっぱりだったんだけど、座標かな、って思って入れてみたらさ、大当たりだったみたい」
天井の大モニターに映し出された地図には、左端に日本列島が、右端にアメリカ大陸が描かれている。その丁度真ん中辺りの赤道上に、中心の光点があった。
「太平洋の真ん中か。だがこんなところに何があるというのだ」
アマンダルは眉を寄せた。光点の横に書かれてある数字が気になる。
「35786。何の数字だ」
「さあ、何だろ」
ノナも首を傾げる。
「高度だ」
エイイチがつぶやく。
「あん?」
不思議そうな顔のク・クーにエイイチは微笑んだ。
「赤道上空、高度35786キロメートル。静止衛星軌道だ。天裁六部衆の中枢『円卓』はそこにある」
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