第10話 鴻鵠の志
夏の空。積乱雲が立ち上る。セミの声。肌を焼く日差し。
アカリは十四歳。この夏の日に決断した。
アカリはヨウジの手を取った。八歳の弟は訝り抗議の声を上げたが、それを無視し、無理矢理に引っ張って走る。家族を捨て、黄金のコルセアの元へ。
「あ、起きた」
ヒカルが上から覗き込んでいる。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「ここは」
アカリは目を細めた。天井のシーリングライトが眩しい。
「学校の保健室だよ。インカさんたちが運んできてくれたの」
ヒカルのすぐ後ろに、インカと小政と、頭に包帯を巻いた大政がいた。
「州政府に関わる者としては、統合政府の人間に死なれては困るのです。それだけです」
インカは何やら難しい顔。少し離れて、ヨウジが壁を背に立っている。
「ラッキーだったな、甘っちょろい奴が多くて」
「もう、ヨウ兄ちゃんはやりすぎだよ」
ヒカルに睨まれても、ヨウジは涼しい顔だ。
「やり過ぎなものか。そいつは自ら好き好んで戦いの場に足を踏み入れたんだ。腕の一本や二本もぎ取ったところで、文句を言われる筋合いはない」
アカリは思わず両手を繋いだ。大丈夫、腕は二本ともある。
「あの程度で目を回すような奴が戦場にいて何になる。コルセアの足を引っ張らんうちにさっさと引退しろ。もしくは死ね」
「ヨウ兄ちゃん!」
「……おまえが」アカリは怒りに震える体を起こした。「おまえがコルセア卿の身を案じると言うのですか」
ヨウジはニッと歯を見せる。
「ああ、案じるね。大いに案じる。あいつには僕と戦うまで失脚してもらっては困るからな。権力の高みでぬくぬくと幸福を感じながら、そのまま地獄の釜の底へ叩き落とされてもらわねばならんのだ。貴様如きに邪魔をされては業腹だ」
「何故。何故それほどまでに、あの方を憎む」
そのとき、弾けるようなヨウジの高笑いが室内に響き渡った。アカリが、ヒカルが、そしてインカと大政小政が、呆気に取られた。
「憎む、憎むだと? 僕がコルセアを憎んでいるように見えるのか、これだからクズの思考は理解し難い。僕がオーディン・コルセアを憎む理由が何処にある。ある訳がない。僕に究極の快楽を与えてくれる存在を、愛しこそせよ、憎みなどするはずがなかろうに」
「究極の快楽?」
アカリは眉を寄せた。それを見下ろしてヨウジは嗤う。
「そうとも。僕は貴様らと戦うときに本気を出さない。いや、そもそも戦う事すら望んでいない。何故だと思う。それは」
そう、それは。
「僕が王者だからだ。貴様ら如き蛆虫を例え何百、何千潰そうが、王者たる僕には何の感慨もない。王者には、王者が戦うに相応しい相手がある。英雄がドラゴンを倒すように、僕にも、この僕がわざわざ打ち倒す値打ちのある宿敵がいるのだ。それに勝利する事によって、僕に他では味わえない快楽を与えてくれる存在がな。その数少ない相手の一人が、貴様の妄信する、そして僕の愛するオーディン・コルセアだ。わかるかな。いや、貴様らには理解できんか」
「ヨウジ……おまえは狂ってしまったの」
アカリは困惑している。アカリだけではない。その場にいた他の者たちも、どんな顔をしたものか困っていた。ヨウジは一つ、ため息をついた。
「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや。貴様らには説明するだけ無駄だな」
そう言ったとき、ヨウジは何かに気付いた。
「どうやら来たようだ」
「お母さんたち?」
「ああ」
ヒカルはアカリを見つめて微笑んだ。
「さっきお姉ちゃんの事を連絡したらね、お母さんとお父さんがこっちに来るって」
ヒカルは風を感じた。旋風が巻き立つように、アカリはベッドの上に立ち上がっていた。
「ヒカル、あなたを今日連れて行くのは諦めましょう」
「何だ、合わせる顔がないから逃げ出すのか」
そう嗤うヨウジを一度睨み、アカリは靴を手に保健室の窓を開けた。
「では後日改めて。待っていますよ」
保健室の扉が勢いよく開けられたのは、アカリが窓の外へ姿を消した一瞬後だった。
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