『隣人』
ハクセイ
第1話 『隣人』
最寄りの駅まで歩いて三〇分。
近くにコンビニもスーパーもない、不便な土地にある木造建築のボロアパート。
その二〇一号室で俺は生活をしている。
不便な土地と、ボロボロの外装からか、このアパートは人気がない。
五年前から住んでいるのに、新しく入居してくる人を見ていないことから、恐らくこの認識は間違っていないだろう。
しかし、そんなボロアパートに新しい住人がやってきた。
その人物は俺の部屋の隣に入居してきた。
黒く長い、少し巻き気味の髪に、そばかすの入った平凡な顔つきの女性だ。
年齢は……二十代後半だろうか。
まるで虚空を見つめているかのような、不思議な印象のせいではっきりとしたことは言えないが、多分そう歳は変わらないと思う。
無駄に広いキッチンで、夕食を作りながら俺は、隣の人のことを考えていた。
どうも、俺は彼女のことが気になるらしい。
これが恋というものなのか、それとも好奇心というものなのか、長年恋人を作らず一人で過ごしてきたせいか曖昧になっている気がする。
と、ふとそこで、俺はあることを思いついた。
「そうだ、せっかくだし、ここは一つ、おすそ分けという手段を使おう!」
そしてあわよくば、彼女とお話しようという算段だ。
翌日。俺は、からっと晴れた空を見ながら、笑顔を浮かべていた。
「昨日は楽しかったな。また作ったらおすそ分けしようっと!」
*
俺と彼女の仲が順調に深くなっていく、そんなある日のこと。
いつものようにキッチンに立ち、料理をする俺の耳にとある音が聞こえてきた。
――刃物を研ぐ音だ。
シュリ……シュリと、砥石と包丁の刃が合わさりそして研磨されていく。切れ味の鈍った刃がその鋭利さを取り戻す音が俺の耳に届いた。
小気味よく断続的に届くその音に俺は思わず、彼女が包丁を研いでいる姿を想像してしまった。もしかすると、彼女も料理を始めたのかもしれない。
「包丁でも研いでいたんですか?」
そう思って、おすそ分けする際に俺は彼女に問う。
「研いでなんかいませんよ」
にこりと笑みを浮かべそう言う彼女。どうやら彼女は、はずかしがり屋みたいだ。
*
とある日、俺の耳に動物の鳴き声が聞こえた。
――ネズミの声だ。
「ヂュー! ヂュー!」
薄い壁を越えて聞こえてくるその声。尋常ではないほどのその叫び声に、俺は思わず驚いてしまった。
声の大きさからして、ネズミの大きさはまぁまぁだろう。野生のネズミだろうか、俺の脳裏に黒くくすんだネズミの姿が思い描かれた。
声から察するにネズミは相当に興奮している。それもそうか、相手は自分よりも何百倍も大きな生き物だ。
その気になればいつでも自分を殺せる相手に出会ったんだ、それは断末魔に近い声をあげたくなるのも分かる。
俺は料理店を営んでいることからネズミの対処には慣れているが、彼女は慣れていないだろう。むやみに挑発したりしないはずだが、もしも噛まれでもしたら大変だ。
そう思い、俺はバケツと、それから厚手の手袋を持って隣の家に向かう。
そうして彼女の家のドアノブに手をかけたとき――
……鳴き声が止んだ。
「ブウンンンン」
荒々しい音を立てて回る換気扇。彼女のキッチンから送られてくる空気の音を聞きながら俺は、しばらく間待機していた。
何かあったのだろうか?
できるだけ物音を立てないように、彼女の扉に耳を押しあてる俺。
しかし、いくら耳を澄ましてみても、ネズミの鳴き声が聞こえてくることはない。
「……」
と、その時、『しゃーっ』と水が流れる音が耳に届いた。
その音に、ビクついてしまい、反射的に飛び出した左足が扉に当たる。
ガン! と硬質で鈍い音が辺りに響いた。勢いよく飛び出たつま先には当然のように痛みがやってくる。
「~~~!」
と、その音を聞きつけたのか、きゅっと水を止め、彼女が扉に向かってくる足音が聞こえた。
そろーっと扉を開き、こちらを覗き込んでくる彼女。黒い髪が地面に垂直に垂れる。
「あ、えっと……その……大丈夫ですか?」
「あ、あはは大丈夫なので気にしないでください」
つま先を押さえながら、苦し紛れの見栄を張る俺。
しかし、どう見ても大丈夫ではない。
彼女を心配して駆けつけたはずなのに、逆に俺が彼女に心配されるなんて、男として完全に敗北した気分だった。
彼女は、終始優しかった。
相も変わらぬ虚ろな目で、僕を部屋に案内すると、彼女は僕のすこし腫れてしまったつま先に氷をあててくれる。ひんやりとした感触が気持ちいい。
俺は彼女の顔を上手く見ることができないでいた。
だって、顔についたネズミの返り血なんて、異性の人に見られたくないだろうから……。
「大丈夫ですか?」
そう言って訊ねてくる彼女に俺は目を逸らしながら答える。
「はい……」
それからは結局、いつものように一緒に食事をとって解散をした。
だけど去り際、俺はしっかりとこの目で見ていた。
――彼女のキッチンに、握りしめた拳程度の肉の塊があることを……。
俺は、徐々に彼女のことが怖いと思うようになっていた。
あのネズミの叫びが、頭から離れなかったのだ。ふと気が付くと、あの断末魔が僕の頭の中をループしている。
気がおかしくなりそうだった。
それだけではない。あの包丁を研ぐ音が俺に懐疑心を与えてしまっていた。
どうしても考えてしまうのだ。
もしかすると、彼女は包丁の切れ味を、ネズミで確かめていたのではないか?
もしかすると、彼女が次に試すのは、ネズミでなく、お――……。
だめだ、思考が良くない。
彼女は優しくしてくれたはずなのに、こんな気持ちを持ってしまうなんて、俺はなんて嫌な奴なんだ。
それからはどうやって自宅に帰ったのかよく覚えていない。
とある日、俺はいつものキッチンには立たずに、机に座って頭を抱えていた。
自分が嫌いになりそうで、なにも手が付かなかったのだ。
すると、『ガリガリ』と鉛筆で描き殴っている音が聞こえてくる。
一体、何を書いているのだろうか。
「あは、アハハ……」
と、時折聞こえてくる笑い声。少しおかしな笑い方だが、俺はなんだが楽しそうだなと思った。
彼女に倣って俺も何か書いてみよう。
そう考えて、一心不乱に紙に書き殴っていると、『ピンポーン』とインターホンが鳴る。
扉を開けると、そこには彼女が立っていた。
どうしたんです? と訊ねる俺に、彼女がニッコリと笑みを浮かべて答える。
「近々開いている日はありませんか? いつもお世話になっているお礼になにかお返しをさせてください」
その申し出に俺は、ゆっくりと頷いた……。
*
「だから、本当のことなんですってば!」
俺は、アパートから一番近い場所にある交番に来ていた。
彼女に対する疑心からか、それとも恐怖からか、俺はとにかく彼女のことを話して、警察に彼女を調査してもらおうと考えていた。
しかし、
「そうは言われてもねー。これといった証拠がないんじゃ、こちらとしても対応しかねるんですよ。それに……あなたのお話を聞く限りそこまで異常があるように思えません。ネズミの肉にしたって、もしかするとペットにあげるためのモノかもしれませんし、そもそも見間違いなんてことありませんか?」
「嫌でも……! 俺はこの耳でちゃんと聞いたんです!」
「そうですか。それなら写真でも音声でもいいので、何か証拠となるものを貰えますか? それさえあればお力になれると思いますので」
警察は当てにならない。つまりはそういうことだろう。
「……わかりました。あの……代わりと言っては何ですが……一ヶ月前、全国どこでもいいので、木造アパートで起きた事件はありませんか? これを聞いたら俺は帰りますんで……」
このままここにずっと居られても、面倒だと思ったのだろう。警察は俺の要求に頷くと素直に教えてくれた。
と、その時、とある一枚の写真が俺の目に留まった。
「な、なんだ……この殺害事件。俺のアパートと状況が似ているじゃないか……」
そして、当日。
彼女は俺を部屋に招き入れた。
彼女の家に上がり込む際、万が一を備えて俺は背中を包丁を隠し持ち、お腹の中に分厚い雑誌を隠しいれていた。
彼女は俺を心底嬉しそうな顔で出迎えると、そのままリビングルームまで通した。
そして、ガチャリと部屋にカギをかける彼女。
恐る恐る振り返る俺に、彼女は言った。
「●○さんには、死んで悲しむような人はいますか?」
その瞬間、俺の意識は途切れた。
そして……再び意識がはっきりしたとき、目の前にいたのは……。
顔の形が分からないほど、包丁でぐちゃぐちゃに刺された隣人の姿だった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
後の捜査で分かったことは、男は数日間に渡って包丁を研ぎ、そしてネズミを刺し殺し、隣人を殺す計画を立てていたという……。
『隣人』 ハクセイ @tuki-hakusei
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