帰宅後の第八話。
命からがらで、俺はあざれあ荘に無事帰ることができた。いや、別に無事じゃねえな...精神的被害が甚大。特にロッカーでの出来事が俺の体力を吸い取っていった。
「ただいまー」
いつも以上に重く感じるドアを開けてから、靴───じゃねぇ、上履きだ。を、脱ぐ。
「おー!おかえり後輩くん」
出迎えてくれたのはハル先輩。珍しくエプロンをつけている彼女はくるりと一回転、まわってみせた。
「どー?似合う?」
うーん、似合ってるか似合ってないかで聞かれたら最高にかわいいな。ああ、疲弊しきった心が癒される。
「ええ、似合ってますよ。今日はハル先輩も料理手伝ってるんですか?」
「そー!今日はペペロンチーノっ」
さっきからガーリックの香ばしい匂いが、キッチンの方から漂ってきていた。今日はたくさん走ったし、否応にもお腹が鳴ってしまう。
「もうすぐできると思うよ!じゃあ私は引き続き手伝ってきまーす」
「はい、俺もすぐ行きますね」
ドタドタ、と忙しなく戻っていくハル先輩を見届けてから、俺は自室へと向かう。
あー疲れた。ふとももとふくらはぎの筋肉痛がひどい。階段を一段上るたび、逆流するように痛みが走るのだ。
あざれあ荘は二階建てだ。一階に共用のキッチンやリビング、お風呂などが備え付けられており、二階にはそれぞれの自室が一つの廊下を挟み込むようにして四部屋ずつ、計八部屋が存在している。今は先生を入れても五人しか住んでないから、三部屋の空きがある。その空室の一つが俺の部屋の左隣だ。去年までは満室だったらしいんだけど、今年三月に引っ越してきた俺の知るところではない。ちなみに右隣の部屋にはひきこもりの『野々原のの』が引きこもっている。
そういや野々原も同じクラスだったな...。まあ学校行ってないらしいし関係ないか。一回くらい顔を合わせてみたいものである。
そんなことを思考して明日からの学校生活については深く考えないようにしながら、俺はボコちゃんが一面にプリントされたフルグラフィックTシャツに着替え、ボコちゃんのフィギュアたちに「ただいま」を言い、制服をハンガーに掛ける。
その過程で、おつかいを頼まれていたモノがポケットに入りっぱなしだったことに気づいた。
あっ、照先輩に黒コショウ渡さなきゃ。
* * *
「おー宮くんおかえり。コショウ、買ってきてくれた?」
台所では照先輩がパスタを炒めていた...もちろん裸エプロンで。
うん、背を向けられてるとケツが丸見えなのよ。もう注意する気力なんてないや。
「...ええ、蓋開けてここ置いときますね」
「ありがと~」
彼は慣れた手つきでフライパンを振りながら片手でコショウを振りかける。その様相はさながらプロのようで、こんな格好(笑)じゃなかったらもっとカッコよかったことだろう。
「そういや電話した時、忙しそうだったけど。なにかあったの?」
あのタイミングの電話は最悪だったなあ。
あとから『宮くんコショウ買ってきて』とのメールが来て、俺は帰宅途中、コンビニに寄ったのだった。
「あー、まあ色々」
「へえー。初日からお疲れさまだ」
何を察したのかは知らないが、照先輩は
「じゃ、食べて体力回復だね。これテーブルに運んどいて」
「はい」
盛り付け終えたお皿を二皿受け取って、俺はすり足で食卓へと向かう。光を反射している麺によく炒められたレタス、程よく焦げ目のついたジューシーなベーコン。唐辛子とガーリックの刺激的な香り...これはかなり美味しそうだ。
テーブルではハル先輩がサラダを盛り合わせていた。俺の両手に持たれた絶品を見て歓声を上げる。
「おおおおおっ!めっちゃうまそーだああっ!やっぱ照は天才だ!」
「あれ、ハル先輩も手伝ったんじゃないですか?」
そう言うと、彼女はきょとんとした。
「ん?私はサラダ盛り付け担当大臣だが...?」
...エプロンつける意味なくないかそれ。まあ別にいいんだけど。
「...そいえば、エプロン。照先輩とお揃いなんですね」
さっき照先輩の裸エプロンを見て気づいたのだが、あしらわれている花の色が違うだけでデザインは同じ物だった。
彼は今朝、新調したと言っていたが、ペア用だったのだろうか。
ハル先輩は頬を赤くして、嬉しそうにはにかむ。
「あっ、気づいちゃったぁ?そーなの!オソロなのっ!...ふへへ」
...以前から思っていたが、ハル先輩は照先輩のコトを好いているのかもしれない。不器用ながらも少しづつ普段から、アピールのようなアクションを起こしている気がするのだ。まあ照先輩には全然気づかれてないみたいだけど。彼女も変人である前に、一人の女の子なのだ。
うん、恋する乙女はかわいいなあ。おじさん全力で応援しちゃうぞ。
俺が黙りこくって分析していると、ハル先輩は心配そうに声を掛けてくる。
「仲間外れにされて寂しいんだよね後輩くん...。でも大丈夫っ!ちゃんと後輩くんのエプロンも注文してあるから!」
「......は?いらんですよ。俺料理しないし」
「あざれあ荘のみんなでエプロン着て一緒に登校しようぜぇ...」
なんだその激キモ集団...。
やっぱり彼女は。女の子である前に、一人の変人なのかもしれなかった。
* * *
そんな他愛のない雑談をしながらも盛り付けが終わり、食卓に並んだのはサラダとペペロンチーノ。俺は三人分のオレンジジュースを注ぐ。いつもは麦茶なんだけど、照先輩が今日、買ってきたのはこのジュースだったのだ。
「お待たせー。じゃあ食べようか」
フライパンを洗い終わったらしい照先輩が座る。野々原と大崎先生はいないから、いつもこの三人で食卓を囲んでいるのだが、これが意外と楽しい。
目の前に料理が並び、もう待ちきれない。お腹と背中がくっつきそう。
「はい!いただきま...」
「あっ、後輩くん!ちょい待ち!」
フォークを持とうとした矢先、ハル先輩がそれを制した。
「な、なんでですか?」
おあずけをくらった俺は情けない声で問う。ハル先輩はニコニコして照先輩の方を見やった。
「今日は、お祝いがあるんだよねー?」
「そうだよ宮くん」
照先輩は鷹揚に頷き、グラスを高々と持ち上げる。
お祝いなんてあったっけ...?あっ、『新学期を祝して!』とかかな。
「えー僭越ながら、この笹野照が乾杯の音頭をとらせていただきます。みなさま、ジュースを持ってください」
「ひゅーひゅー」
パチパチ、とハル先輩が拍手する。なんかえらい仰々しい。でも確か俺があざれあ荘に来た日も、こうして盛大に歓迎してくれた覚えがある。つい先月のことなのに、ひどく懐かしく感じた。
照先輩は椅子の上に立って、グラスを掲げた。つられて、おもむろに俺もグラスを持つ。
そして。椅子上の彼は大きく息を吸って。
「宮原夕陽にぃ!初めて彼女ができたということでぇ!乾杯ッッ!」
「かんぱーい!後輩くんっ、おめでとー!」
......は?
「いやなんで知ってんねんっっっ!!!」
チャリーン、というグラスのぶつかる音をかき消すように、俺は叫んだ。
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