Черный из черного

 国はといえばもう散々な有様だった。覚悟して住むことを決めた親父もさぞ嘆く事だろう。おかげでこんな仕事に就いた俺は、どうにも歯が立たない相手を前に親父の死に目にさえ立ち会えていない。

 青は藍より生まれて藍よりも青し。まったくもって間違っていないと思える。それがたとえ暗黒だろうと闇より生まれた行く末は闇より暗し、というわけだ。

 逃げる事を選んだ女は賢明で、こちらへ引き寄せポケットを探る。脱出のための陽動作戦だ。出来る限り注意を逸らせておきたいと、取り出したジッポのオイルをいくらか撒いて火を点けた。企みを援護して見る間に火はカーテンに広がると、逆巻く熱風にもう揺れて早く行け、とこちらを促している。

「どこへ?」

 従い返した踵で女が眉を詰めてみせた。

「十分後、裏通りに迎えが来る」

「なら任せて。抜け道がある。あなたの知らないね」

 教えるが早いか右、左、と脱いだヒールを両手に、振ったアゴで指し示す。

 広がる煙が視界へ霞みをかけていた。わかった、と返すと共に女は部屋を飛び出してゆく。踊り場でひるがえされた体こそ熱に踊るカーテンに似て、なびかせ続く階段を駆け降りていった。追えば背後で、抜け出してきた場所へ駆け込む足音を耳にする。なにをや指示する慌ただしい声は交錯し、おそらく消火に奔走しているのだろう。物々しさが増したところで階下へ辿り着いていた。

 人目を忍び辿って来た廊下はそこで臙脂のじゅうたんを敷くと、ホールへ向かい伸びている。だが女はそちらへ見向きもしない。今しがた降りてきたばかりの階段下へ身を屈み込ませる。はめ込まれた、この屋敷を知る者でなければとうてい開けないような木戸を引き開けた。道具部屋、いや、ここで働く者らの支度部屋らしいそこには所狭しとチェストやコート掛けが並べ置かれている。無造作と引っ掛けられた上着にズボンが明かりを遮り、見通せない部屋を狭く、薄暗く変えていた。

 かき分けて進む女の足取りに迷いはない。この屋敷で長らくメイドを務めてきた頭の中には、見取り図ではなく屋敷そのままが格納されているのだろう。ままに光の中へ抜け出てゆく。吊られたシャンデリアも豪奢なダイニングだ。中央の長テーブルを囲う椅子には細かな装飾が刻み込まれ、燭台も重たげと銀を光らせていた。だが腰かける者だけがおらず、知っているからこそ飛び出して行った女は椅子の傍らをはだしで駆け抜け、隣り合う厨房へとそうっと頭を突き出してゆく。

 脅かしてサイレンが鳴らされた。

 火事を知らせる音に引き寄せられ、辺りへ人の声は集まり始める。

 囲まれるその前にだ。女はひと思いと厨房へ潜り込んだ。ステンレス製の調理台に身を添わせると屈み込み、猫のように物音ひとつ立てず声から離れ走り出す。頭上を吊られた銅鍋がかすめ、せり出すミキサーを肩でかわした。塔のように積み上げられたオーブンの手前で調理台を離れ、左へ折れる。その突き当りには玉ねぎが山盛りのカゴはあり、たどり着いたところで女は傍らのドアノブを握る。

 捻る動きが鍵のかけられていないことを知らせていた。

 開け放つ。

 人は目の前を歩いていた。降り注ぐ日差しもまた眠いほどぬるく、浴びた裏通りは午後のまどろみにどっぷり浸かり横たわっている。

「どう?」

 確かに屋敷のフェンスを越えて回り込んできたことを思えば、ずいぶんと早い脱出劇だ。

 女は足をヒールへねじ込みなおしながら首を傾げ、上出来だ、と答えてこちらは迎えを探す。振った頭で見つけたなら丸い車体が玩具のようなビュートは、上げた手を目指してエンジンを唸らせ、目の前でブレーキを踏んだ。

 後部座席のドアを開き女を押し込む。おっつけ自身の尻も革張りのシートへねじ込んだところで、声を浴びせられる。

「何だ、ソイツはっ」

 ハッタリだ。運転席から振り返っていた。

「俺たちがずっとやり取りしていた相手だ」

「コッチは何も聞いてないぞっ」

「内通していることが知られた。一緒に出る」

「なら向こうにもう、マークされてるってことか」

 なんてこった、と言わんばかりにハッタリが空へ両手を向ける。

「やっぱり降りるわ」

 だとしてドアを閉めたなら、やり取りに女が入れ替わりと反対側のドアを押した。伸ばした腕で手へ触れて、やめさせる。

「いいから行け。そのために火を放ってきた」

 知らせてハッタリへ投げれば煙も、知らせて屋敷の窓から細く立ち上っている。光景に気付いたハッタリが身を屈めるようにしてフロントガラスの向こうをのぞき込んでいた。その顔をなおさら引きつらせる。

「まぁったくっ、お前ってやつはもうっ」

 なじるが同時に諦めもしたらしい。

「お前の無謀は、まったく家系だなっ」

 ヤケクソ紛れでハンドルを握り締める。ギアもまた入れ替えると、踏み込むアクセルで狭い路地に車体をすりつけんばかりビュートを発進させた。

 確かに、親父は危険を顧みず移住を決めた。当時、そんな無謀を好んでする輩はいないものだから乗れる便もなかったほどだ。

 決意させたお袋は生涯を通してその身を敵に明け渡してはいない。共存を可能とした体質は突然変異と呼ばれ、受け継いだ俺は死者しか生まないこの星の、唯一のナチュラルボーンとなった。でなければ内通者と、こうも繰り返し接触などできはしなかったろう。

 胸に、受け取ったばかりの最後の箱を確かめる。その角ばった感触を引き抜き改め四方から眺めた。

 この中におさめられているのは、たかが言葉だ。「RNA《ルナ》」と呼ばれた、しかしながらただの言葉とはワケの違う代物で、少しづつ持ち出したそれはもう九割がたがそろうと向かうラボで蘇る時を待っている。

 ビュートがまた猛烈な勢いに驚く通行人を追い抜いていった。ままに裏通りを抜け出せば他車に紛れるべくハッタリはハンドルを切る。

 しでかしたことを悔いているのか、これからを恐れているのか、女が頬の涙を拭っていた。触れて抱いた肩を、ただ大丈夫だと強く揺さぶってやる。

 何しろこの国はもう散々だ。勝ち目のない戦いに今や屍の数だけで勝とうとしている。だからして生み出され続ける暗黒の果てに、それすら吹き飛ばす黒を復活させようとしたところで、この泥仕合のハイライトとしてふさわしいとしか思えない。

 うまくゆけば四世代は先のハナシだ。それまで国がもてばだが、ワケの違う文言は魔術を蘇らせるはずだった。すでに出尽くしたテクノロジーと希望に頼れるものはそれくらいしかないのだから、飛躍がすぎる手段だとしても託すほかない。

 その魔術で、散々に縮んだ国を繋ぎ止められたならと願う。

 送り込まれる人々にとって墓場だとしても、俺にとってここは唯一の故郷ふるさとなのだから。

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