第3話
光のゲートを抜け、薄ぼんやりとした頼りない灯りしかない次元の狭間の、レンガの床を踏み締めて。
アルドは周囲を見回し、栗色の長い髪と赤いジャケットが、また何処か別の時代へと繋がる穴へ飛び込むのを、辛うじて確認することができた。記憶が正しければ、彼女が選んだのは、アルドの生きる時代の、月影の森に通じるものだった。
そんな場所に、どんな用事があるっていうんだろう。
後を追って、彼女が向かったのと同じ穴へと身を翻し、通い慣れた深い森へと出る。場所は、森の中でも特に奥まった位置だ。周囲は水を張ったように静まり返り、人の気配はない。微かに聞こえるのは虫の声と、遠くから響く、獣やモンスターの唸り声だけだ。
靴底が、草を掻き分ける足音もない。
つまり見失ってしまったということになるが、彼女が森の中にいないのであれば、その先のバルオキーか、更に進んでユニガンまで向かったのだろう、と判断する。
そこでなにをしようとしているかは、わからない。
それでも、なんとなく、彼女の生きる時代には身近に触れ合うことの叶わなかった、植物や自然に類するものに用があるようには、見えなかった。だから、明けない夜を思わせる神秘的な森を抜けるため、一路、人里を目指した。
数多の冒険で剣の腕前を鍛えたアルドの前では、森の中やその先の平原で遭遇するモンスターたちは、単身で相手しても蹴散らせる程度のものばかりだった。この旅を始める前は、たった一匹のモンスターを倒すことさえも、容易ではなかったのに。
あのときはフィーネが攫われたりして、大変だったな、と脳裏に甦る記憶に苦笑いを浮かべながら。
追いかける背中が平原を抜けようと駆けていくのを見つけて、アルドは何とか気持ちを切り替えた。
村で立ち止まる様子がないとすれば、この先にあるのは王都、さらに先には港町のリンデがある。後を追う足を止めることなく、付かず離れずの距離を保ったまま、いったいどこまで行こうとしているのだろうかと、アルドは首を傾げるしかない。
だが入り組んだ湿原を横断し、ユニガンの城門を潜った辺りで、少女が急に減速したので、アルドは慌てて物陰に身を潜めることになった。
走るのをやめたということは、用があるのは港町ではなくここかと、何かを探すかのように周囲に視線を彷徨わせる背中を見つめる。
そしてエイミは、しばらく往来の人々を眺めていたかと思うと、意を決したかのように大きく息を吸い込み、鍛え抜かれたしなやか両脚で、まっすぐにミグランス城へと歩いていったのだ。
長きに渡る、人間と魔獣軍の争いが、16年という節目で終止符を打ったのは、ついこの間のことだ。
最後の衝突と呼べる魔獣軍の王都への猛攻によって損壊した城郭の修繕は、いまだ充分とは言えず、内部は崩れた壁がそのままになっている箇所さえある。
だが騎士たちの誇りに翳りはないらしく、廊下ですれ違っても誰もが気さくに声を掛けてくれた。騎士団内には、顔見知りが多いせいでもあるのかもしれなかったが。
ああ、あんたか、と手を上げて歓迎をしてくれる騎士たちに微笑んで返して、エイミは城内一階の奥へと向かっていく。
その先には、騎士たちの詰め所があるだけなのだが、と階段の影から動向を伺うアルドの目の前で、彼女はその両開きの扉の奥へと消えていった。
この時代の、騎士たちの、詰め所に? なんの用で、エイミがここを訪ねるんだ?
中でどんなやり取りをするのか、聞き取ることはできないだろうか、と大きな扉の前で腕を組んで唸っていると、周囲に控えていた騎士たちに怪訝に見られ、断念せざるを得ないアルドだった。
さりげなく扉の前を通り過ぎ、二階へ向かう体で階段に足を掛けて、それまでのように身を潜めようとした、
そのときだった。
ばん、と奥の扉、詰め所のドアが開かれる大きな物音がして、アルドは反射的に身構えた。
なにかがあったんだと、腰に佩いた剣に手を掛けた、瞬間。
目の前を、見覚えのある人影が、脇目も振らずに疾走していったのだ。
赤いジャケットの背中が遠ざかっていく。彼女が詰め所にいたのは、ほんの数分、だっただろう。
見間違いでさえなければ、また、顔を真っ赤に、していたようにも、見えた。
また?
また、なにかが、あったのか? ここでも?
ばたばたと駆けていく足音が遠ざかる。追うべきだと、わかっていても。
詰め所から響く笑い声が、あんまりに、楽しそうで、
アルドは耳を疑った。聞き慣れた、鼓膜に馴染むテノール。詰め所内で騎士たちにあらゆる指示を出す、騎士団長ラキシスの声だ。
顔を真っ赤にして駆け出した少女と、愉快そうに笑う騎士団長。
なにもかもが繋がらなくて、アルドはただ混乱した。
なにが起こっているんだ、そもそも、エイミとラキシスにどんな関係が? 生きる時代も、性別も、年齢も違うのに、彼女らは、いったいなにを話していたんだ?
ただならぬことがあったと確信し、仲間の後を追うことも失念して、アルドは開け放たれた扉から、詰め所内に足を踏み入れた。
ああ、きみも来ていたのか、と朗らかに笑んで片手を上げた男性騎士は、目尻を指先で拭っていた。あふれた涙が、流れ落ちないようにとすくい取ったかのように。
そんなに、泣くほど、笑っていたのか?
「二人で来ていたなら、一緒に訪ねて来たらよかっただろうに。あんな話を、若い娘さんの口から聞くことになるなんてね、はは、驚いたよ」
気さくな笑みを浮かべたまま、妙な言い回しで話し出す騎士団長に、アルドはなぜかどきりとした。
確信はないが、艶っぽい話題の気配を察したのだ。
慌てて話を遮るように前に出て、違うんだ、となにを否定するでもなく首を振り、アルドはもつれそうになる舌を必死で動かした。
「ま、ま、待ってくれ。オレは、エイミが一人でラキシスに逢いに来た理由を知らないんだ。彼女の親父さんから、なにをしてるか追いかけてくれって、頼まれたくらいで」
「それは、はは、そうか。ひとには話し辛いかもしれないな。それで私を選ぶのも、どうかと思うが。ただ、彼女は真剣だったよ。私も、なんだか懐かしい気分になれた」
「待て、懐かしいってなんだ。真剣って、ど、どんな話をされたって言うんだよ」
「それは、本人から聞いておくれ。私の口からは、少し、はは、気恥ずかしいね。いや、そんな、きみが危惧するような内容の話ではないよ。いかがわしい類の話題ではない。うん、たぶんね」
「たぶんってなんなんだ……!」
それは本人の口から確かめるんだね、と騎士団長は笑うだけで、これ以上、彼から何かを聞き出せそうになかったので。
アルドはわかり易く脱力し、ああもう、ともう一度、泣き言を漏らすしかなかったのだった。
□□□
普段なら、詰め所内でぼんやりと佇んでいる陽だまりの騎士が警護の任務で出払っていたせいで、二人の会話を確認できる人物もおらず。アルドは騎士団長に手を振られながら、一人とぼとぼとミグランス城を後にした。
顔を真っ赤にして城を飛び出したエイミの姿は、ユニガンの街の中では見つけることができなかった。
恐らく、用を済ませた彼女は、元来た道を戻って時空ゲートを抜け、エルジオンの街に戻ったのだろう。ほかに、この時代に留まる理由を、アルドは思いつかなかった。
だから、バルオキーの村を抜けて月影の森を目指そうとしていた折、村にある自宅から、
三度少女が飛び出し、走り去ってしまう姿を見て、
ひっくり返りそうなほどに仰天したのだ。
いた。
まだいた、この時代に。
また、顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに走っていって
中で、誰と、なにを話して、あんな顔をしたんだろうか。
迷わず駆けて行く先はヌアル平原で、その奥に位置する月影の森からまたゲートを使うのだろうことは、見当がついたので、アルドはもう躊躇わずに家の扉を開いた。
午後の柔らかい日差しの差し込む窓辺に佇み、ノックもなくドアを開けて入ったアルドの顔を見て、白髪頭の村長は、細い目を開いて大層驚いたようだった。
手にしていた杖を握り直し、元気そうじゃなあ、と笑って。
「爺ちゃん、いま、エイミが来てただろ。なんか、おかしなところはなかったか?」
穏やかな呼びかけに応える余裕もなく、アルドは向かい合った村長に、掴みかかる勢いで問い詰めた。
翁は落ち着け落ち着け、と笑ったが、アルドとしてはそれどころではない。
家の中には、いつも家事で忙しそうにしている妹の姿はない。
つまり、エイミは、間違いなく村長と話をして、真っ赤になって走っていったということになる。
だが、謎は深まるばかりだ。
育ての親である彼と、騎士団長のラキシスに、共通点がまったく見えないのだから。
『あんな話を、若い娘さんの口から聞くことになるなんてね』
『それは、本人から聞いておくれ。私の口からは、少し、はは、気恥ずかしいね』
詰め所で涙を流すほど笑っていた、ラキシスの不穏な言葉が脳裏に甦る。
恥ずかしい話ってなんなんだ。あの落ち着き払ったラキシスが、涙が出るほど笑うような、懐かしい気持ちになる話って。
ザオルは、彼女の父親は、尾行を勘付かれるわけにはいかないと、身を隠すのに必死だった。それには、相応の理由があったんじゃないのかと、いまのアルドは彼の奇行に呆れていた数時間前の自分の行いを恥じてすらいた。
エイミは、父親の顔を見てくるとエルジオンで別れた後、店の窓から、彼の様子を伺っていた。
もしかして、父親に知られたくない用事があって、事故的に街ですれ違う可能性を考えて、店で仕事をしている姿を確認しに行ったんじゃ、ないのか。
ザオルは、それに気付いた。
見つからないように尾行をして、隠れて何かを企むエイミを、止めようと、していたのかも、しれない。
ザオル本人の目的は、娘を追い掛け回して逢いに来いと一喝することだったのを、アルドはすっかり失念しているが、それだけ思考に余裕がなかったのである。
父親に隠れて、彼女が企んでいたこと、それは
「おまえさんの仲間の、あの子なら、ついさっき尋ねてきたぞ。おまえやフィーネではなく、わしに話があると言うてな。なんの話かと思ったら、はは、可愛い悩みの相談じゃった」
「……そう、だん?」
「ああ、年頃の娘には、よくある悩み、なのかのお。いやあ、よく気が付く、優しい子じゃ。あれはモテるぞい」
「年頃の、優しい娘、それにモテるって……。じ、爺ちゃん、エイミに、なんの話をされたんだよ」
村長は機嫌よく、はっはっと笑っていたが、アルドはそれどころではない。
彼の脳内には、すでにある仮説は組み立て上がっていたが、確信を持つのを、恐れていた。
もしかして、エイミは、彼女は
「それは、本人の口から聞いたほうがいいだろうな。わしの口からはちと、はは、まあ、照れ臭いのでなあ」
そう言って、翁は愉快そうに笑った。
眼前で、落ち込んだように暗い顔をする青年の表情など、まるで目に入っていないかのように。
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