そして、彼がやってきた.2
キリクは人間で、旅人で、歳は23歳だ。妻と子供がいる。妻はアリアスというエルフで、子どものゼンもエルフだ。ゼンとキリクは、血が繋がっていない。
2年前、アリアスは砂漠に打ち捨てられ、彷徨っていた。その時すでにアリアスの腹の中にはゼンがいて、彼女が砂漠に捨てられた理由がそれだった。アリアスは子どもの頃から、とあるチートの家で玩具代わりに飼われていて、家の主と過ごす毎晩15分ほどの悪夢を除けば、衣食住が保証された、今の世界では恵まれている生活を送っていた。ところが、子どもを孕むと同時に家を追い出された。行く当てもなく、彼女は日々重くなる腹を抱えて砂漠を彷徨い歩いた。やがて力尽き、このまま砂に埋もれて死んでいくのだと諦めた。倒れたまま日に焼かれ、意識が曖昧になり、覚醒と失神を繰り返した末に、ようやく楽になれると微笑んだとき、キリクと出会った。
当時21歳のキリクは、年相応の野心を持ち、剣技と魔法もそれなりに収めていた。キリクはこの力で身を立てようと考え、人づてで、ある砂漠の盗賊団に加わることができた。
しかし、キルクは罪悪感に勝つことができなかった。盗賊になった当日、彼は人を1人だけ殺したが、それから3日間は一睡もできなかった。仲間は酒を飲んで忘れろと励ましたが、いくら飲んでも酔えなかった。むしろ飲めば飲むほど殺した人間の顔が鮮明に脳裏に浮かび、自分を育てた親の顔がちらつき、家に帰りたいという気持ちが強くなった。「こんな底辺みてぇな暮らしができるかよ、オレは美味いもんを食って、偉い人間になるんだ。勝ち組になるんだ」そういって飛び出した貧相な故郷が、ひどく懐かしく思えた。それから2年間、キリクは盗賊として生きたが、戦闘には関わろうとしなかった。仲間が築き上げた死体の山から宝を回収したり、寝静まった旅人のポケットから何らかの道具を盗むことを中心とした。命がけで刃を振るう仲間たちは、当然そんな彼を快く思わなかった。キリクは「ゴミ漁り」というあだ名で呼ばれ、時には宴席で嘲笑の的になった。キリクはそういう時「はは、すみません」と笑って誤魔化していた。
そんなある日、キリクは砂漠で倒れているアリアスを仲間たちと発見した。仲間たちは瀕死の、しかし美しいエルフの女を見て、餓えた獣の目になった。人間がエルフを抱けることは稀だ。彼らは「妊婦なのは残念だけど、運がいい」と笑って、神への感謝の言葉を述べながらアリアスのまとっていたボロ着に手をかけた。それを見た時、キリクは「やめろ」と心の中で叫んだ。「やめろ。なんでそんな酷いことをするんだ」叫び続けたが、仲間たちは止まらなかった。そして膨らんだ彼女の腹が露出したとき、キリクは衝動的に剣を抜き、仲間たちを斬り伏せた。キリクの剣の腕は確かだった。相手は4人いたが、問題はまるでなかった。全員が喉に深い一文字の傷を作り、真っ赤な血液を噴出しながら崩れ落ちた。全員即死には至らなかったものの、数十秒後には「ヒーヒー」という弱々しい呼吸音が消え、砂漠に静寂が訪れた。
キリクは仲間だった連中の死体を漁って――ずっとやっていた通りの慣れた手つきで――水の入った筒を奪い取ると、女の口に水を無理やり含ませた。一刻も早く、この場から離れなければならない。仲間殺しは重罪だ。腕に自信があるとはいえ、盗賊団全員と戦うことはさすがにできない。
「起きろ、起きてくれ」
腕の中の女の意識が戻ることを、キリクは心から願いながら声をかけ続けた。
「目を覚ませ、早く!」
アリアスは目を覚まし、か細いが、たしかに「はい」と答えた。
それから2年間、2人は旅をした。
水のある街には住めなかった。そういう場所に留まれば、すぐさま盗賊団の追っ手がやってくる。それに元盗賊というだけで捕らえられ、処刑されかねない。しかし旅にも危険がつきまとった。キリクには分かっていた。この大陸には、自分のような無法者たちが溢れかえっているし、人を喰らう怪物もいる。それに、もしもチートと出会ったなら、その瞬間に旅は終わるだろう。危険は重々承知のうえだったが、それでもキリクは生きるために旅を続けた。逃げ続けなければ、考えられる限り最も苦痛を伴う方法で殺される。それも自分1人ではない。アリアスもだ。
2人の旅に目的地はなかった。生きるための旅、安全な場所を求めての旅であって、しかも安全の定義は毎日のように変化した。「雨風をしのげる場所」や、「血の匂いに敏感な八足の獣・赤晶蜘蛛(セキショウグモ)の縄張りから外れること」に変わる日もあった。しかし「生まれたばかりの赤ん坊を育てることができること」が安全の定義になったとき、キリクは人生で最大の問題に出くわした。幼い子どもを安全に育てることができる場所など、この世界に存在するだろうか?
キリクは生まれ育った故郷に戻ったが、そこは無人の荒野になっていた。何本かの柱が立っていたが、その全てが黒く燃えた形跡があった。キリクは盗賊時代の自分の行いを思い出した。小さな集落に潜り込み、火をつける。その混乱に乗じて村人を殺し、物をありったけ盗み出す。ここでも同じ事が起きたのだろう。
キリクとアリアスはさらに旅を続け、ようやく見つけた安住の地は、切り立った崖に空いた洞窟だった。ここなら盗賊団の追っ手はこないだろう。雨風はしのげるし、食料は洞窟の奥から湧いてくる虫を食えばいい。水も――水滴というべきだが――あるにはあった。
だが、赤ん坊を育てられる場所ではなかった。アリアスの母乳は早々に枯れてしまった。そして2人は、日に日に痩せ細っていくお互いの体を確かめ合いながら、このままでは死んでしまうと確信した。
そんな折、キリクは洞窟のあたりを歩く旅人を見かけた。
キリクはその男に話しかけた。「肉、できれば獣の肉が欲しい。交換できるものは何もないが、その代わり何でもする」悲壮な決意を持って交渉に臨んだキリクだったが、旅人は痩せ細ったキリクと、洞窟の奥から聞こえてくる赤ん坊の泣き声を耳にするなり、干し肉を取り出し、妻と2人で分け合うように伝えた。
さらに旅人は、キリクにこう切り出した。
「チートの1人が、この砂漠の向こうの、ジャクア山の麓に村を築いている」
その言葉に、キリクは耳を疑った。
「嘘だ。オレは2年間、ずっとこのあたりを旅していた。ジャクア山の麓も通ったが、そんな村はなかった。いいや、それどころか、あのあたりは砂漠の中でも特に酷い、本当に草木一本生えていない枯れた土地だ」
「結界魔法だよ。盗賊やクズどもに目をつけられないように、結果魔法で村全来を覆っているんだ。目では見えないし、主との間に【契約】を交わしていないと、体ごとバーンっと弾かれちまう」
「村全体を隠す結界魔法……」
ありえる、とキリクは思った。任意の土地を結界で覆って見えなくする『幻想魔陣(げんそうまじん)』という魔法がある。それを使えば、小さな村を隠す程度のことはできるだろう。『幻想魔陣』は【光魔法/習得レベル89】という上級魔法で、使える魔法使いはごくごく一部だが、無限の魔法力を持つチートならば容易い。
「その村には水も食料もあって、畑もある。相応の労働をすれば、対価として食料と安全は保障される。オレはそこの住人で、仲間と外に出た。村の外を、世界を見てみたかった。だが……やめておくべきだった。世界は、どこに行っても本当に酷い。ロクでなしか、無法者か、異常者か、怪物ばかりだ。あんたみたいなマトモな人間には久しぶりに会ったよ」
「だろうな」
キリクは感情を込めずに答えた。
「ここに来るまでの間に、オレの仲間は2人とも死んだ。1人は盗賊にやられて、1人はつい先日、三頭甲虫に食われてな。最悪だったよ。覚悟はしていたけれど……」
旅人は首を横に振った。思い出したくもない光景を振り払うように。
「オレは死にたくない。このまま1人で旅を無事に終えられると思っていたが、正直なところ、今は自信がないんだ。この旅で散々に思い知らされた。この世界に絶対はない。オレは1人で生きていけるほど強くない。2人みたいに死ぬのが怖い。村に生きて帰りたい」
まぎれもない弱音だったが、旅人の言葉は力強かった。彼は敗北を真正面から受け入れた者だけができる、清々しい目をしていた。
「あんた、その腰に下げている剣を見るに……それなりの使い手だな。用心棒役で、一緒に来ないか?」
突然の申し出に、キリクは戸惑いの表情を受かべた。すると旅人は、キリクの背を押す言葉を足した。
「赤ん坊がいるんだろう? うちの村長は、今の時代には珍しいほど優しくてね。あんたら3人くらいなら受け入れてくれるはずだ。俺からもお願いするよ」
食料、さらにその先にある未来の約束。希望にあふれた話だったが、それでもキリクは迷った。彼はチートを信頼できなかった。チートは往々にして独善的で、この世界にいる全ての生命体を一つ下の存在として見ている。そんな連中が平穏な村を作るだろうか?
しかし同時に、キリクには今の自分を取り巻く現実があった。自分にはゼンとアリアスがいる。安全な場所に移り住むのが一番だ。もちろん旅はどうなるか分からない。危険はある。実際、すでに旅人の連れも2人も死んでいる。ただ、幸いにも自分は総合レベル【37】で、並の人間よりは遥かに腕が立つし、先ほど旅人がいった三頭甲虫は強いものでも総合レベル【12】程度の下等な怪物だ。目的地のジャクア山まで距離はあるが、三頭甲虫よりも強い怪物はいない。自分なら大丈夫だ。きっと全員を守り切って、目的地に辿り着ける。
決意を固めると、キリクはすぐさまアリアスに旅の話を持ち掛けた。自分でも驚くほど情報を整理できず、しどろもどろになってしまった。それでも一通り条件の話を終えると、キリクはアリアスの目を見て未来を語った。
「村に辿り着いたら、オレたちはちゃんとした夫婦になろう。そして2人でゼンを育てよう。オレは人間だから、アリアスよりずっと先に死んでしまう。でも、出来る限り長い時間、オレは3人で一緒に過ごしたい」
するとアリアスはキリクを抱き寄せ、囁いた。
「キリク。私たちは、もう夫婦です」
その途端、キリクの目から涙があふれ出した。それは本来なら、初めて人を殺したあの夜に流れるべきものだった。彼は思った。あの時、こうして涙を流して、逃げ出すべきだったのだ。あの夜は「こんなことはやっちゃダメだ」という自分の内側から湧き上がる声を否定した。「そんな甘えた考えじゃ強くなれないぞ」「故郷を出たのは、強くなるためじゃないか」そう己に言い聞かせて、彼は涙をせき止めてきた。それが崩れ去ったのだ。
もはや言葉は不要だった。2人は口づけを交わし、深く頷き合った。これから何が起きても後悔しない、そう決意を固めたのだ。
旅人を洞窟に迎え入れ、その夜は出会いを祝福し合った。そして翌朝、4人は旅に出た。泣くゼンをキリクがあやし、アリアスはそれを笑顔で見ていた。旅人は赤ん坊のけたたましい泣き声に、若干の後悔の色を浮かべながらも、キリクやアリアスと目があうと、できるかぎり優しい笑顔を浮かべた。
旅人の名はカラルといった。頬に十字の傷がある、20歳の若者だった。
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