第39話 0-2
途中、幾度か投げ出そうかなという思いがよぎりつつも、何だかんだで読み通したあなた。
期待していたのはタイムパラドックス的な面白さだった故、物足りなさはある。血生臭い話が多かったのも、好みが分かれるところだ。それでも時間の経過を忘れて読み続けて、暇つぶしにはなった。
と、ここであなたはちょっとおかしなことに思い当たる。
何万字あるか知らないが、それなりの分量の小説を読むにはある程度時間が掛かる。当然だ。だけど、一度も邪魔が入らなかったのはどういうことだろう?
流行病のせいで滞在時間はなるべく短めにとアナウンスされている。時計で確認すると、来館してから優に三時間は経っている。他の利用者がいないから声掛けもなく、読み続けていられたのだろうか。辺りを見渡すと、多いとも少ないとも言えない人数。朝、ここに来たときから変わっていない気さえする。
とりあえず読了したのだから、次の本を持って来てここで読むか、あるいは今度は貸し出し手続きをして、家に帰るか。少し迷うあなたの元へ、一人の図書館員が真っ直ぐ近付いてきた。最初に消毒液を掛けてくれた人でもなければ、やや無愛想だったカウンター応対の人でもない。男性だ。中肉中背で縁なし眼鏡を掛けている。マスクで表情が隠れている点を抜きにしても、特徴の感じられない人だった。
あなたは、滞在が長いからとうとう追い出しに来た?と解釈し、腰を浮かせて立とうとする。しかし、男性は目の前で立ち止まり、圧を掛けるかのように見下ろしてきた。これでは座らざるを得ない。
「体調はいかがですか?」
白いマスクの下、多分笑みをたたえ、穏やかな口調で聞いてくる。あなたは病気を疑われたのかと「え、いえ、平気です」と早口で答える。続けて「もう出ます。借りますからそのあとで」と付け足した。
「いえ、そのようなことを言っているのではありません。ぼちぼち、お気分が悪くなっても不思議ではない頃合いですので」
剣呑な台詞を吐く相手を、あなたは訝しみ、目を細めて品定めした。本当に図書館員? 疑ってみたが、他の図書館員が近くを通ると目で挨拶を交わしている。間違いなくここの人らしい。だが、図書館員が利用者にここまで堂々と話し掛け、しかも会話を続けるというのはちょっと尋常じゃない。静かにするのが当たり前の空間なのに。
少々不安に駆られ、あなたは聞く。
「あの、いったい何を仰っているのか分からないのですが……」
「説明申し上げましょう。驚かないで聞いてください。あなたが今し方読み終わった本の各ページには、液体状にしたニコチンが塗布されています」
「え、ニコチン?」
聞き返す声が大きくなったが、誰からも咎められる気配はない。
「ニコチンは体内に入ると、分量にも拠りますが毒として作用します。でも触れただけでは普通、たいして摂取することにはなりません」
なんだ、と感情が激しく波打つのを覚えながらあなたはこの奇妙な男に、いつ怒り出そうかタイミングを計り始める。
「そこで消毒液の出番です。入る際に、手に拭きかけられたでしょう?」
「え、ええ、まあ」
話の続きを聞かない内から、自らの手のひらを見下ろすあなた。
「あれは単なる消毒液じゃなく、そこに肌が薬などの成分を吸収しやすくする物質を加えた物です。ご安心ください。その物質だけなら害はありません。貼り薬に使われる物ですから」
「……」
「ただ、そんな物質の入った液体を手に塗った上で、ニコチンの含まされた紙に触れる、それも長時間続けざまにとなるとどうなるか」
「まさか……ニコチン毒が手の平や指先から吸収されて……」
「はい。体調が悪くなる。下手をすると命を失っても不思議ではありません」
「何でこんな恐ろしいことを」
本気なのか冗談なのか、判断が付かない。雰囲気だけで言うなら、本気のようだ。
「その疑問に答をもらうよりも、先にするべきことがあるでしょう。早く治療を受けないと。あっと、でもここからは出しませんがね」
「何? 何を言ってる……」
男の言葉が暗示になったか、それとも本当に効き目が現れ始めたのか、気分が悪くなってきたあなた。
「館内に居ながらにして、助かる方法を用意しています。なのでひとまずご安心を」
「居ながらにしてって、この建物には医務室があるとでも?」
呼吸が乱れてきたよう。加えて、頬や額に熱っぽさも感じ始めた。
「まさか。そんな施設は付属していません。答はあなたが持っている」
「持っている?」
心当たりがない。体温が上がり、思考が徐々に鈍くなっている感覚があった。あなたはストレートに考えた。
「持っているのは本だけ……」
「そう。それにもう一つ、カウンターで受け取った物があるでしょう」
「……貸出カード?」
「おお、なかなか冴えているようですね。その調子で、二つの共通点を」
謎かけのように言われたが、まだぴんと閃くものはなかった。思考を一段ずつ積み重ねる必要がある。
「本の内容はスキップカードというアイテムが出て来た。そして貸出カード。カードが共通項……?」
「ますます、いい調子じゃないですか」
当たっているようだ。そのままの方向へ考えを推し進める。
「まさか、スキップカードは実在して、時間を遡って解決しろって言うんじゃあないでしょう?」
「どうして、『まさか』なんて思うんです?」
あなたの正面に立つ男の眼は、対象物を面白がるそれになっている。
「どうしてって、架空の物だから……」
「読んでいる間は、あたかも実在するアイテムとして、物語にのめり込んでいたのではないんですか」
「それはまあ、ほんのちょっぴりなら」
「だったら、それを大きく膨らませて、完全に信じることです。信じることこそ新たな物、空想上の物を事実にする力の源泉になるんですよ」
「意味が……飲み込めませんが」
「時間の輪廻に入り込んしまえっていう話、聞いた覚えはありません? 時間物を好んで読む程の方なら知っていておかしくない」
「好んで読む訳ではない……が、思い出しました」
呼吸がしづらいなという意識が勝り、台詞は途中でやめた。しゃべる余裕が徐々に削られているのが分かる。
タイムマシンの作り方は分からないが、将来、自分はタイムマシンを絶対に作り出している。ならばその将来の自分にタイムマシンで現代に来てもらい、タイムマシンの作り方を教わる。そしてタイムマシンを作った自分はそれに乗って、かつての自分にタイムマシンの作り方を伝授しに行く――こういうパラドキシカルなネタだ。
「どうやら理解していただけたようですね。その輪廻に入り込むことで、スキップカードは本物になる。そして毒を摂取してしまう前の状態に戻ることを考えればよいんです」
「屁理屈は分かった。けど、スキップカードはどこに? カードがここにないのでは話にならない」
「いえ、あります。さっき言ったじゃないですか」
ということは、貸出カードが?
熱っぽさに苦しみながらも、必死に考える。そうだ、貸出カードを新しく作る際に、直に署名させられた。あれってもしや。
あなたは真新しい貸出カードを手に取り、ラミネート加工を剥がそうとする。しかしうまくいかない。
「剥かなくても結構。その形のまま、スキップカードとして使えます」
続く
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