第26話 5-3
それでも準備は怠らないようにするのは、断るまでもない。当時の答案を引っ張り出してきて、中身の確認をし、さっきも述べたペンライトを買って来た。抽斗の鍵を開けるのに役立ちそうな薄い金属製の定規、型取りの必要が出たときのための粘土も準備した。
思い付いたことをすべて整え、いざSカードを使用する段になって、ちょっと怖じ気づいた。何せ、江住氏が時間を超えて旅してきたらしい様子を見せつけられただけで、僕自身はこれが初めてのスキップになるのだ。半信半疑よりかはだいぶ信じる側に針が振れているけれども、完全に信じ切った訳ではない。いや、インチキに騙されているだけならまだしも、自分の身に危険が及ぶんじゃあるまいなという意識が急に湧いてきた。
だけどここで中止すると、滑稽な一人芝居を演じただけで終わってしまう。僕は思い切った。
~ ~ ~
正直言って、最初は時間を遡って過去に来られたのかどうか、はっきりしなかった。真っ暗な部屋の中に来ただけだったのだから。とにもかくにもペンライトを灯してみて、思い描いたまさにその位置に立っていることを認識した。教授の部屋、ドアのすぐ内側である。ここをイメージしたのは、なるべく安全に到着したかったから。室内の他の場所だと、何が置いてあってもおかしくないが、ドアの前だけは開閉のためのスペースを取っておくはずとの読み。それは的中したようで、部屋のそこかしこには中身の詰まった段ボール箱や小型掃除機、鉄アレイなんかが所狭しと置いてある。ぼんやりとだが記憶していた通りの状態だ。
僕は到着した時刻を確かめ、念のためにストップウォッチ機能で二時間三十分後にアラームが小さく鳴り響くようにセットすると、早速作業に取り掛かった。デスク回りから当たっていく。一段目の抽斗を開けるとそこには大型封筒に入った紙の束があった。もしやと思い、手袋をした手を延ばして確かめると、まさしく探し求めていたテスト。拍子抜けするあまり、笑い声を立てそうになったほどだ。
が、ちょうどのそのタイミングで、ドアの方から物音がした。どす、という鈍い音にはっとして固くなる。一瞬遅れて振り返ったが、何もなかった。物が落ちたようでもない。しばらく耳をそばだてる。見回りのガードマンが来たのかと想像したが、それも違うようだった。空調らしき物音が一定かつ単調な振動をしているのが分かっただけだ。
何だか分からないが急いだ方がいい。僕はペンライトを咥え、両手で答案用紙を素早く繰った。じきに自分の答案を発見。今度はペンライトを机に置き、用紙を照らすようにしてから解答を手直ししていく。消しゴムを使って出た消しかすは当然、丁寧に集めて持ち帰る。
そして約三十分後、解答の修正が終わり、僕の答案は可から優になった、はずだ。気が急いていたせいで、字が若干、乱暴になったが不自然ではあるまい。僕は遺漏のないことを念入りにチェックし、自分の答案用紙を他のとひとまとめにし、大型封筒に入れた。もちろん、向きや順番は元の状態のままにする。抽斗に封筒ごと戻す際にも、できる限り最初に見たときの角度になるよう、心掛けた。
最後に改めて忘れ物など、ミスをしでかしていないか注意を払って室内を見渡す。これでよし。僕はペンライトの明かりを消し、ポケットに入れると代わりにSカードを取り出し、戻る態勢に入った。
~ ~ ~
無事に帰り着いた――自分の部屋のいつもの光景を目の当たりにした途端、そう感じてほっとした。
が、次の瞬間、僕は玄関扉の手前に立っていることを把握する。おかしいな。出発するときは勉強机の椅子から立ち上がったところだったんだが。一般教養の一科目を可から優にしただけで、その後の僕の人生に軽い変化が起きたらしい。
あとで思うと、ここまでよく冷静かつ素早く分析できたなと、我がことながら感心する。というのも、たった今、目の前のドアが凄い勢いで押し開けられたのだ。何ごとかと目を見張った僕の前に現れたのは、きのこ頭のひょろい男――良知だ。あの細身でどうしてこんな力が出せるんだと思うくらい、ぐいぐい押してくる。圧倒されて部屋の奥まで来てしまった。何ごとかぶつぶつと、語気を強めて言っているが、聞き取れやしない。壁に押し付けられ、胸ぐらを掴まれたところでいよいよ危険だと感じた。相手の両目は血走り、まさに僕を殺そうとしている、そうとしか思えないのだ。
逃げなければ。でもどうやって?
考えようとするも、頭が空回りしている。喉に手を掛けられ、酸素不足に陥っているのだと理解する。右手で抵抗し、左手は身に付けていたはずの金属製の定規を求め、ジーパンの腰に。と、その前に何かに触れた。Sカード。
咄嗟の閃き。ここからスキップすれば一時的に逃れられる?
意識が薄れていく。最早、ためらっている余裕なんてない。僕はSカードを床に放り、虫の息の声で「――スキップ――」と絞り出した。
~ ~ ~
はっと息を吹き返す感覚があった。本当に死にかけていたのかもしれない。
気が付くと僕は横たわっており、上半身をそろりと起こして辺りを見回すも、真っ暗でよく分からない。が、既視感がある。目に見えていないのに既視感というのも変だけれども、一度知っている空間だと肌で分かる。
そういえばいつの時代のどの場所を思い浮かべてスキップしたのだっけ。慌てていたから思い出せない。と言うよりも、思い浮かべていなかった?
だが、立ち上がろうとしたとき、物音がした。僕が立てたのではない物音が。
あっ。
ようやくすべて把握した。
ここは教授の部屋なのだ。どうやら一度目のスキップと同じ頃合いに来てしまったらしい。そして物音を立てているのは、一度目の僕。少しの間静かだったのは、僕がスキップして到着した際の音に、一度目の僕はどきりとして動きを止めたから。思い出すまでもなく、覚えている。あのとき、変に勇気を出して探さなくてよかった。僕は僕に見付からぬよう、部屋の隅に身を潜めた。
続く
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