第18話 4-1

清美きよみちゃん、これ何だろうね?」

 床に広げたファッション誌に視線を落としていると、弥生やよいおばあちゃんの声が聞こえた。顔を上げて声の方を見ると、こたつ机の上におばあちゃんがハンドバッグの中身を広げている。

 祖母、原島はらしま弥生は視力がほとんどない。人が正面に来ても、二メートルも離れていたら薄ぼんやりした影法師のように感じられるだけらしい。その分、他の感覚が鋭い。耳は喧騒の中にいてもある一つの音の源がどちらの方向にあるのか分かるし、鼻は人の微かな体臭や口臭でもだいたいの区別は付くほどだ。一番は第六感だと笑いながらよく言っているけどね。

 そんなおばあちゃんが比較的得意じゃないのが、触覚だ。使い慣れた物なら手や指先で触れただけですぐに何か分かる反面、馴染みのない物やそれまで使っていても新たに再購入してきた物なんかは苦手。今は、バッグの中身を手先で“見て”いて、正体不明の何かに触れたんだろう。

 私は立ち上がり、おばあちゃんに「何かあった?」と声を掛けながら近付いた。上から見下ろすと、机の天板におばあちゃんが左手を置いていて、その下に何やら緑と黒色でデザインされた薄いカードみたいな物がある。

「おばあちゃん、左手の下にある物のこと?」

「そうだよ。爪を切ったばかりだから、うまくつまめなくてね」

「じゃ、私、それを手に取るから、左腕に触るね。びっくりしないでね」

 おばあちゃんの視力が急速に衰えた頃、私を含めた家族の者は、ついついやらかしてしまった行為があった。それはおばあちゃんの身体に触れること。ほとんど目の見えないおばあちゃんにとって、相手がいることは認識できたとしても、触られることはまったく予測できない。それなのに私達は以前と同じつもりで、気軽に肩を叩いたり、手を引いたりしていた。現在では改善したけど、少なくとも私は意識していないと忘れてしまいそうになる。

 さて、今起きていることのような場合、おばあちゃんが自分で左手を持ち上げてくれてもいいんだけど、たいていはおばあちゃんの手を他の人が持ち上げるようにしている。というのも、おばあちゃんは正体不明の物がどんな色や形をしているのか、サイズはどれくらいで硬さは頑丈なのか脆いのか、重量がいかほどあるのか等を把握できないため、手から離れた状態にするのが怖いみたい。その物が壊れたり飛んで行ったりして、周りの人まで見失っては困る、という意味でね。

 そんなわけで、私はおばあちゃんの左手の下から、そのカードを慎重に取り上げた。

「カードみたい。大きくSって書いてある。ゲームに使う……のとはちょっと違うかな」

「ゲーム。それじゃあ私の物じゃないのは確定ね」

「待って待って。ゲームとは違うわ。裏にいっぱい文字が書いてある。読んでみるね。覚えがあるかないか、分かったら言ってよ?」

 私はそこにある小さな文字を読むために、目を細めた。ぱっと見以上に文章量が多いと気付いて、そのまま読むのはあきらめることに。

「長くなりそうだから省略して言うと、このカードはSカードと言って――」

 続きを話そうとして、困った。Sカードは過去や未来に行ける道具との旨が書かれているのだが、とてもじゃないけど信じられない。それにおばあちゃんに話して、すんなり理解してもらえるかどうか。

「どうしたんだい?」

 私の沈黙を訝るおばあちゃん。

「ううん、何でもない。おばあちゃん、このカードはハンドバッグに入っていたの?」

「多分ね。今日、病院に行った際、男の人と軽くぶつかってしまって、折悪しくバッグの口を開けたところだったの」

「そのときに中身がばらけてしまった? 大変だったんじゃあ」

 聞かされていなかった話にびっくりして、おばあちゃんの前に座った。おばあちゃんは微笑して、ゆっくりと頭を左右に振った。

「そうでもなかったのよ。相手の男性だけじゃなく、他の人も集まってきて拾ってくださって、助かった。どちらが悪いか分からなかったんだけど、男性から謝ってくださったし、事なきを得たわ」

 それは何より。ていうか、おばあちゃんの話しぶりと表情から、ぼんやりと想像が付いた。嬉しさを押し隠すように話すとき、それはおばあちゃんにとって何かいいことがあったサインなのだから。そして今聞いた話の流れだと、多分……。

「おばあちゃん、その男の人の声、イケメンボイスだったでしょ」

「よく分かったわね」

「分かりますとも。ついでに言えば、男性は結構お歳で、身体のどこか、恐らく足か腰の具合がよくない人じゃなかった?」

「すごい。あの場にいたかのようね。正確には膝を悪くされて、杖をついてらしたわ。どうして分かったの?」

「想像しただけだよ。おばあちゃんの好みの声は渋い低音で、おじいちゃんの声が理想でしょ」

 おじいちゃんは亡くなってからもう五年ぐらい経つ。目を悪くしていたおばあちゃんをかばって、事故で亡くなったのだ。でも原因について、私達周りの者は誰もおばあちゃんに話せていない。だからおばあちゃんはおじいちゃんがぽっくり逝ったと思っている、はず。

「足腰が悪いというのは? 場所が病院だからといって、他にも疾患は考えられるんだし……」

「ぶつかったのがどっちが悪いか分からないって言ったじゃない。ぶっちゃけちゃうけど、目のよく見えない人が他人とぶつかったら、普通は相手の方が悪いってなるじゃない。でも、どちらが悪いか分からないってことは、相手の人も何か身体的な困難を抱えている可能性が高い。男性は散らばった物を拾ってくれた一人だから、目が見えないということはなさそう。となると素早く反応できない理由が他にある。足腰がよくないという線を真っ先に思い浮かべるのは、全然おかしくないよね」

「なるほどねぇ。相変わらず清美ちゃんは、想像力豊かで勘のいいこと」

「大外れするときもあるけどね。それより、その男性とおしゃべりをしたの? お茶を飲むくらいの」

「いいえ、とんでもない。その方は帰るところで、私は来たばかりだったのよ。その場で右と左に分かれたわ」

「なーんだ」

 恋が始まるかと思ったのに。こういう恋バナは、高校生の私にとって大好物なのだ。身近なクラスメートの恋バナも気になるけれども、おばあちゃんのそれはもっと気になる。


 続く



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