第7話 翔べない鳥 その2
百合は駐車場に停めてあった真っ赤なクーペに乗り込んでハンドルに手を掛けると、今日の試合を振り返って少しばかり考えた。
叔父さんの滅茶苦茶な采配は別としても、はっきり言ってとても無理ね
彼等に勝とうだなんて……可哀想だけど
特にあの11番、彼がいる限り……
恐らく彼は世代別代表に選ばれる逸材
あのプレースピードは尋常じゃない……
それに……凄いのは彼だけじゃない
とにかく上州学園は普通の中学校が勝てるチームじゃない
叔父さんには悪いけれど……
……?
百合がエンジンを掛けて顔を上げると、こちらに向かって走ってくる少年がいることに気付いた。
群青色のユニフォームだった。
あれは……静和の……
先ほどまでピッチで悔し涙を流していた背番号10の少年、静和のキャプテンを務めていた少年だった。
そんな彼がユニフォームの汚れも落とさないまま百合の元へと走ってくる。
「……私に用?」
窓を開けて百合が対応した。
少年に見せた百合の表情には、暖かみだとか優しさみたいなものは欠片も無かった。
「ハァハァ……ハァ……すみません、挨拶しときたくて……小林先生から聞いてます……凄い人だって」
息も切れ切れに少年が言う。
「挨拶なんて必要ないわ、それと……小林先生が何て言ったか知らないけれど私は凄い人間でも何でもないわよ、ただのOL」
「ハァハァ……いや、そんな事……でも……ウチのコーチを引き受けてくれるんですよね?」
「断ったわよ……悪いけど」
「えっ……そんな!!」
少年の悲痛な叫びをよそに、百合の表情は涼しいものだった。
「じゃあごめんね、もう行かなきゃ……
頑張ったわね、お疲れ様」
そう言って百合はアクセルを踏み込み、勢い良く車を走らせた。
ドコンッ
大きく鈍い音がしたのと同時に車が縦に揺れ、その弾みで百合は車の屋根に頭をぶつけた。
「つっー……」
ジワーっと頭頂部に広がっていく痛みを手で擦りながらドアの外を覗くと、運転席側のタイヤが出入り口の縁石に乗り上げているのが見えた。
百合は運転が下手だった。
シュルシュルシュルシュル……
「えっ?何?何?」
乗り上げたタイヤからは謎の音と共に白い煙みたいなものが上がり徐々に車高が下がっていくのが分かった。
「最悪……」
何とか車を動かして縁石からは抜けられたが乗り上げたタイヤは見事にパンクしていた。
百合は車の横でなすすべもなく呆然と立ちすくんでいる。
「大丈夫ですか?……あっ!!パンクしてる!!」
「わかってるわよ、ハァーもう……」
先程の少年が駆けつけてきて言った。
「どうしよう……」
叔父に助けを頼もうにも、このタイミングではどうにもばつが悪かった。
あ、そうだ!!ロードサービス!!
百合はスマホを取り出した。
「嘘でしょ……何で?」
スマホの画面をいくら触っても暗いままで何の反応も無い。
「……うぅ、まさかちゃんと充電できてなかったなんて、私の馬鹿、とんま」
力なくその場にへたり込んだ百合にはもはや見る影も無く、無惨なまでに打ちひしがれたようになっていた。
そんな百合をよそに少年は何やら車の中を覗き込んでいる。
「……?ちょっと何してるの?」
「タイヤ交換ですよ……よっと、スペアタイヤに替えれば……とりあえず」
そう言って少年は百合の車のトランクを開けると、中からスペアタイヤと工具を取り出した。
百合は思いがけない展開に少し呆気に取られていた。
少年はユニフォーム姿のままで黙々とタイヤを交換していく。
「……替えのタイヤなんて入ってたんだ、知らなかった、勉強になったわ……君随分手際良いのね」
「うち自動車の修理工場やってるんですよ、その内継ぐことになるんでよく父の手伝いを」
「……どおりで、君名前は?」
「大田原です、大田原まこと」
百合は中腰になって大田原の作業を覗き込むようにしていた。
「大田原君……助かるわ、ありがとう」
百合はようやく笑顔を見せて言った。
「いえ、このくらい……あの、その……代わりと言ってはなんなんですが……」
大田原は百合のその笑顔に少し赤くなって言った。
「何?もしかしてコーチ?」
「はい!!……ダメですか?」
「それはまた別の話、進んで助けておいて条件を出してくるなんてずるいわ」
「……やっぱり」
大田原はシュンとなって作業を続けた。
百合はそんな彼の縮こまった背中を見てクスっと笑った。
「ねぇ、聞いても良い?」
「何ですか?」
大田原の手が止まった。
「言い方がちょっとあれだけど、大田原君は3年生でしょ?……その……つまり……」
「……つまり?」
言葉に詰まった百合を大田原が不思議そうに見ている。
「つまり……君は今日でもう引退でしょ?どうしてそこまでこのチームに尽くすの?」
「ハハ……やっぱ変ですかね?」
百合が一気に一呼吸で言うと、大田原は苦笑いして聞きかえした。
「ううん、変じゃない、全然……それだけこのチームが好きってことよね、ハァー……デリカシー無さすぎたわ、ごめんなさい……今のは忘れて」
慌てて否定した後、百合は後悔したように額を手で覆った。
「大丈夫ですよ、気にしないで下さい……チームどうこうって言うよりも……ほんとは2年生に借りを返したいだけなんですよ」
「借り?」
「試合を見てたから分かると思いますけど、僕らは2年生のおかげで今日上州と戦うところまでこれたんです……本当なら最後までピッチに立っていたのはあいつらじゃないとおかしいんですよ、僕ら3年生はこの試合が最後だから使ってもらえましたけど」
「よく聞く話じゃない、だからってあなたがそこまでする必要はないと思うけど」
「実は……今年の2年生はほとんどが上州のセレクションに落ちてるんですよ、あいつらは今日まで必死にやってきた……自分を選ばなかった上州を見返す為に……だから今日の試合はあいつらにとっても特別だったんです」
「……そうだったの……」
核心に触れた大田原の言葉に百合も思わず唖然とした。
「先生が交替を指示した時も泣きながらコートを出ていった、まだ戦わせて欲しいってほとんどの2年生が言ってました……それを僕らが……奪ったみたいで……」
「奪っただなんて……そんな事ないわ、監督命令だもの、君がそれを気にする必要なんて無い」
すかさず百合が強い口調でフォローする。
「……ほんと言うと2年生なんて大嫌いでした、確かにサッカーは上手いけど生意気な奴らばっかだし……特に姫野って奴なんて最悪ですよ、でも今日のあいつら見てたら……」
「……」
「あいつら2年生は僕達3年生みたいに楽しいサッカーがやれればいいわけじゃないんです……貪欲に勝ちたがってる、一度は否定された自分の価値をもう一度確かめたいんだと思うんです、あいつらを見てるとよく分かる、あいつらにはきっとサッカーしかない、だから……」
大田原の話に耳を傾ける百合の顔からは、いつの間にか笑顔が消えていた。
「……終わった?」
「ええ……はい、終わりました」
しばらく無言のまま作業していた大田原が体をどかすと、そこにはスペアタイヤがしっかりと取り付けられていた。
「……大田原君、本当にありがとう、お礼しなくちゃね……工賃にするといくらなの?」
「いえ、気にしないでください、ほんとにいいですから」
「……私に借りを作らせる気?良いから素直に受け取りなさい」
そう言って百合は財布を覗き込んだ。
……嘘でしょ?
百合はそのまま石像のように固まった。
見た目は随分高級そうな財布だったが、入っていたのはレシートばかりで肝心なお札は一枚もなかった。
「……うぅ……ごめんなさい、そう言えばお金下ろしてなかった……ハァー……厄日ね」
「いや、ほんとにいいですから……じゃ」
「ああっ、待ちなさい!!ちょっと!!あっ!!」
百合は慌てて彼の後を追おうとしたがその拍子に財布を落としてしまった。
小銭やらカード類が派手に地面に散らばっている。
それらを急いで拾い集めている内に大田原の姿は見えなくなっていた。
「……ハァ、借りができてしまった」
百合は運転席に座ると深い溜め息をついた。
否定された自分の価値を……もう一度、か……
大田原の言葉がやけに耳に残った。
百合は無意識のまま自分の右膝をいたわるようにそっと優しく擦っていた。
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