第8話 翔べない鳥 その3
〜3年前〜
女子サッカーチーム ディオサ東京 本拠地 監督室
「いや、悪いな療養中のところ呼び出して」
「……いえ、膝も大分良くなってますんで、2,3カ月後には練習に参加できそうです」
「そうか、良くなってるか……そりゃあ良いことだ」
百合の腰かける椅子の傍らには松葉杖がひっそりと立て掛けられ、彼女の対面には机を挟んで監督が座っていた。
ブラインドの隙間からこぼれるオレンジ色の西日が彼の顔に暗い影を落としている。
百合からは彼の作っていた表情がどんなものなのか、少し判りづらかった。
「ところで……田代、お前のその膝の怪我……何回目になる?」
いきなりの質問に百合の体が一瞬硬直した。
「……3回目です」
少し間を開けて、怯えたようにおずおずと百合が答える。
百合のその声が届いているのかいないのか、監督は眉間にシワを寄せたまま目をつむり微動だにしない。
「……そうだ、3回目だ、決して少なくない……膝ってのはそういう所だからな、それに……正直俺はこの先きっと4回目、5回目もあると思っている……どうだ?自分ではその怪我についてどう思ってる?」
深く息を吐いて瞑想を解くと、重い口を開いてそう言った。
「……どう……ですか?……ですから、その2,3カ月後には練習に」
「そういうことじゃなくてな……実はこの間スタッフミーティングでお前の話が出たんだよ……フロントの人間も……その……オーナーも立ち会ってな……」
声の調子は穏やかだったが、その言葉に百合の心臓は鷲掴みにされたようだった。
監督はしばらく黙り込むとやり場が無いように指で机をトントンと叩き出した。
明らかに何かを口ごもっていた。
百合には彼が何を言おうとしているかすぐに分かった。
呼び出しがあった時点で彼女には察していたところがあったのだ。
恐らく自分の進退についての話だと。
もう少し言えば怪我をした瞬間から彼女の頭の中にはこのことがよぎっていた。
やはりそうだ……
覚悟はしていたけれど……
仕方ないじゃない
膝に爆弾のある選手なんて……
……受け入れよう……
膝の上で作っていた握りこぶしがギュッときつくなっていく。
百合の中でもすでに決意が固まっていた。
潔く、私から切り出そう……
「あの……私……辞めたくないです、絶対辞めたくない、ここでサッカーしてたいです」
その言葉に、監督の指の動きがピタリと止まった。
百合も自分自身で驚いた。
口から出た言葉が頭で考えていたそれとは違っていたからだ。
違う、じゃなくて……
言わなきゃ……
辞めますって、自分から……
「お願いします!!続けさせて下さい!!」
百合は突然立ち上がり監督に頭を下げて言った。
その拍子に立て掛けてあった松葉杖が音を立てて派手に倒れた。
まただ……
何で?
自分でも自分の行動が理解出来ないままだった。
訳も分からない気持ちで立っていると、百合の右膝に突然激しい痛みが走った。
百合は苦痛に顔を歪めて、思わずその場に倒れ込んでしまった。
「うぅ……やだ、いやだ……辞めたくない」
痛みのせいなのか、胸の奥で押し殺していた言葉がつい漏れていた。
それまで塞き止めていたものが無くなると、一気に顔がクシャクシャになって嗚咽するほど涙が溢れ出てきた。
「私からサッカーを取らないで!!!!」
慌てて側に駆け寄る監督に向かって叫んだ。
彼は一瞬どうしていいか分からず戸惑ったが、倒れた百合をそのままにはしておけなかった。
「……俺だってお前のような若く才能溢れた選手にこんなこと言いたくない……でもお前の膝はきっとまた壊れる……その怪我はずっとお前に付いて回る、膝ってのはサッカー選手にとって命だ、翼みたいなもんだ……女子サッカー選手とは言え曲がりなりにもプロ選手だ、翼を壊して飛べなくなった選手を誰が雇う?誰が金を払ってまで見るんだ?……プロってのはそんなに甘いもんじゃない、お前だって分かってるはずだ」
監督は百合に手を貸して椅子に座らせると、小刻みに震える両肩を掴んで諭すように言った。
「……えうっ、つづ、続けたいんでず……わたっ、私には……えっ、さっ、サッカーしか……サッカーしかないんでずっ、おねっ、お願いじまず」
何を言われているのか、とても理解できる状態ではない。
それでも自分の置かれている状況だけは分かっていた。
とにかく今は恥もへったくれもない、それが例えどんなに惨めな姿でも彼女にはすがり付くしか他に方法はなかった。
「……悪いが話は終わりだ、残念だよ」
誰から見ても当然の事だった。
すでに決まっていた事が覆る余地など、最初から何処にも無かった。
容赦なく切り捨てるような台詞だったが、絞り出したように掠れた声で言っていることは百合にも分かった。
百合には却ってそれが苦しかった。
終わりを告げられた百合には、悲しみに暮れて涙を流す以外に出来る事がなかった。
「えぅっ、うぅ……」
「……田代、選手以外でもこのチームに関われるようフロントに話はできる、お前にそのつもりがあれば……出来るのはそこまでだ、悪いな」
最後にそう言うと倒れた松葉杖を百合に手渡し監督は部屋を後にした。
残された百合はしばらく一人で泣いていた。
泣いて泣いて、また泣いて、ようやく涙も尽きたころだった。
ギュルルルルルル……
百合のお腹が鳴った。
……そう言えば何も食べてこなかった……
お腹空いたな……
何だか妙に可笑しくなって、つい一人で吹き出してしまった。
……よし、ラーメン食べに行こう!!
百合は少しばかり元気になって、部屋を出ようと松葉杖を使ってゆっくりと立ち上がった。
濡れた頬を拭って少しずつ体を横に向けると部屋の片側一面に置かれたガラス棚に目がいった。
「あっ……これ、あの時の優勝カップだ……」
棚の中にはトロフィーやら写真やらが所狭しと飾られていた。
夕日に照らされたそれらは、燃えるように美しく輝いている。
百合は吸い込まれるように少しずつそこへと近づいて行った。
それからそこに並べられた一つ一つにこれまでの思い出を重ね撫でるように眺めていると、ふと一枚の写真に目が留まった。
練習時に撮ったチームの集合写真だった。
中央では百合がボールを抱え、無邪気に笑いながら写っている。
高校を卒業してまだ間もない頃のものだった。
懐かしいな……
あの頃はサッカー辞めたいって毎日一回は思ってたっけ……
そうして思い出に浸っていると、松葉杖に支えられていた百合の体が徐々に小さく震えだした。
……なんで?
……なんでアンタ笑ってるの?
……馬鹿じゃないの?
……もうそこには戻れないんだよ?
何も知らずに笑っている写真の中の自分が、酷く滑稽に思えた。
目には再び涙が溢れ、ゆっくりと視界がボヤけて滲んでいく。
その内百合は自分の右膝を殴りだした。
力一杯拳を膝に叩きつけた。
痛みでその場にうずくまってもまだ殴った。
とにかく何も考えたくない。
ただ、頭の中を痛みで一杯にしたかった。
羽ばたけなくなった鳥は地に這って惨めにもがくしかなかった。
その後百合はサッカーから離れることを選んだ。
田代百合、まだ二十二歳になったばかりのことだった。
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