「ごめんなさい」


 そう言って、彼女は離れた。


「本当に。ごめんなさい」


 右隣。暖かさが、少しだけ残って、そして、消える。


「わたし。待てなかったんです。どうしても」


 彼女。


 店の奥に消える。


 帰ろうと思った。


 立ち上がる。


 いつものように、お金をカウンターに置いて。


 ドアを開ける前に、彼女が来て。


 紙を一枚、渡してくる。


 自分の名前。

 もう片方は、彼女の名前だろうか。


「ごめんなさい。本当に。耐えられなくて」


 婚姻届。受理済みの書式の、コピー。日付は、数日前。


「結婚したのか。俺と」


「わたし。人の思いが、見えるんです。何を考えているか、何を感じているか」


 彼女。真剣な目。


「次は二年後ぐらいにしようかって考えていたのが、その、見えてしまって。それで、二年経ったら、思いきってあなたに言ってみようと思って」


 彼女。涙が、ぽろぽろとこぼれる。


「でも、あなたは来なくて。わたし。あなたが、死んでしまったと思って。でも。あなただけだと、思ったから。婚姻届を」


「死人と結婚してどうするんだ」


「生きてて。くれたら。そう思って。ごめんなさい。本当に。ごめんなさい」


 婚姻届。受理した担当者の名前。仲人欄。親族欄。仕事仲間の名前がびっしり書いてあった。


「あいつら」


 知っていたのか。


「わたし」


 彼女。


「あなたの想いが、見えます。どこまでも人に優しくて、どこまでも暖かい、想いが」


「俺が?」


 人を殺して生きてきたのに。


「あなたは、優しすぎるから」


「優しくなんかない」


「だからって、あなたが自分を責めて。それで何かが、解決、するのですか?」


 解決。


「なにかを解決させるために、生きているわけではない」


「嘘です」


 嘘だった。

 どうしても、解決させたいものが、ひとつだけ、ある。


「死にたいん、です、よね?」


 死にたかった。自分の命を、解決させて精算してしまいたかった。そのために、仕事を受けて、街にいる悪人を殺している。


「死ぬなとは、言いません」


 彼女。店主として振る舞っているときは見せないであろう、表情。泣き顔。


「でも。あなたが、死ぬまでの間。少しだけでいい。そばに、いさせてください。わたしと一緒に、いてください」


 彼女の涙が、また。こぼれていく。きらきらと光って、流れ星のようだと、なんとなく思った。


 何も答えず。


 店を出た。


 少し歩いてアーケード街を抜けて。


 空を見上げる。


 綺麗な星空だった。

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