第194話 一歩、前へ (6)

 ぼんやり光る蛍光灯の下で、落ちてくる雨粒を眺めていた。しばらくして、一台の車が駐車場へと入ってくる。車のライトが消えたところで、傘を広げ、アパートの軒下から出た。叩きつける雨の勢いは強い。スマホのライトで水たまりを避けながら、運転席へと近づいた。ガラス越しに手を振ると、春海が驚いたよう手を振り返す。


「春海さん、入ってください」

「ありがとう」


 春海が、ドアを閉め、傘に飛び込んできた。


「すごい雨ですね」

「ほんと。もう、いい加減に止んでほしいわ」


 右腕に絡まった体を意識しないように、春海を先導していく。先週までは夏を思わせる天気だったのに、降り続く雨のせいで、今日は肌寒い。薄暗い玄関を目指して、春海を雨から庇った。


 ◇


 鈍い衝撃が、繋いだ手から伝わり、我にかえった。目を開けると、玄関のドアに春海を押しつけるような格好になっている。


「ごめんなさい! どこに当たりました?」

「大丈夫よ」


 おろおろする歩を「軽く、ぶつかっただけだから」と春海がなだめる。ドアに寄せた傘の下には、大きな水たまりの跡ができているのに、二人とも靴さえ脱いでいない。濡れた左肩を拭いてもらいながら、ねだったキスにいつの間にか夢中になっていた。申しわけない気持ちのまま、先に春海を部屋に通す。ひそかに落ち込む歩に気づいたらしく、春海が、すれ違いざまにささやいた。

 

「また、後でね」


 その一言に、打ち抜かれたように動けなくなった。最近、もっと触れたいという気持ちに振り回されている。キスの途中、恐る恐る腰に触れた手は、結局引っ込めてしまったけれど、春海が、唇の端で笑っていたから、気づかれているだろう。先程までの感触を思い出すだけで、体が熱い。

 

「歩?」

「今、行きます」


 いつまでも動かない歩を心配して、春海が戻ってくる。手を繋ぐことにようやく慣れた自分とは違い、春海はキスの後も平然としている。そんな姿をうらやましく思いながら、玄関を上がった。


 ◇


 春海のリクエストで、夕食に卵焼きを追加した。いつもと変わらない手順なのに、今日は春海が熱心に見守っている。


「あとは、卵を焼くだけです」

「じゃあ、他に隠し味とか入れてないのね」

「はい」


 熱々の卵焼きを並べ、向かい合って箸を取る。春海が、味を確かめるように、ゆっくり咀嚼した。悩むような声につられ、歩も口に入れる。普段と変わらない味がする。


「花ちゃんの卵焼きと、そんなに違います?」

「なんとなくって違いなの。でも、やっぱり、あたしは、こっちが好きだな」


 頷きながら春海が、もう一切れ箸で摘まむ。おいしそうに頬張る姿に、歩まで嬉しくなる。


「そういえば、花江さんから、今度は二人で遊びにおいでって、誘われたんだけど」

「花ちゃんのところにですか?」


 思いがけない誘いに、一瞬口ごもった。春海と出かけるのは嬉しいが、花江と会って、どんな話をすればいいのか分からない。そんな心情を読み取ったかのように、春海が目元を緩める。

 

「ちゃんと、歩の気が向いたらって付け加えてあったわよ。勇太にからかわれるのも確実だろうし、無理しなくていいわよ」


『HANA』に行って以降、春海が花江と勇太の名前をよく口にするようになった。もう一度、友人として二人と付き合えることが嬉しかったらしい。春海の明るい表情に、断る選択肢はない。

 

「春海さんがよければ、私は大丈夫ですよ」

「ほんと? じゃあ、歩の都合に合わせるわ」


 窓ガラスがガタガタと音を立て、会話が途切れた。外の風が、勢いを増したらしい。雨粒が次々とガラスを伝っていくのが見える。


「今度の台風、風も雨もすごいですよね」

「迷走してる上に、速度が遅いって最悪よね。歩、明日はウチにおいで。仕事が終わったら、迎えに来るから。明後日のバイトは、車で行けばいいわ」

「お泊まりは嬉しいですけど、さすがにそこまで甘えられませんよ」

「出勤が一番危険な時間帯じゃない。いっそのこと、お店も店員の安全を考えて、臨時休業にすればいいのに。あたしの職場なんて、早々と休みにしちゃったわよ」


 春海が、やる気のない上司を思い出したのか、うんざりとした表情になる。先日発生した台風は、観測史上最大規模の大きさになりそうらしい。少し前から、進路を大幅に変えたため、暴風圏内に入るのは確実で、慌ただしい台風対策に追われている。乾いていないレインコートでの出勤は憂うつだが、明日の仕事は早めに上がれるはずだ。


「明日、仕事が終わってから行きますね」


 歩の言葉に、春海の表情が、ぱっと明るくなった。

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