第193話 一歩、前へ (5)
「帰り道、気をつけてね」
「ええ、また来るから。
じゃあね、勇太」
「うっす」
お互い笑顔で手を振ると、春海の車を見送る。車が見えなくなった後も、長い間、その場に立ち尽くしていたことに気づいた。
「戻りますか」
「待っててくれたのね、ありがとう」
「いいっすよ」
勇太と肩を並べ、店内へと戻る。置いたままのグラスに気づくと、一足早く勇太がさらっていった。
「午前中忙しかったし、もう少し、休んでください」
「じゃあ、あと十分だけ」
ランチタイムに弁当の注文を始めたおかげで、午前中は目の回る忙しさだった。これから、ディナーの仕込みがあるものの、もう一休みしておきたい。勇太の言葉に甘えて、そのままカウンターへと腰を下ろす。
勇太が、むき身のエビを冷蔵庫から取り出した。小麦粉、卵、パン粉を並べ、エビを一尾ずつ摘まんでいく。
「正直、色々と驚きすぎて、なんだか信じられない気分だわ」
次々と衣をまとうエビを眺めながら、呟く。勇太が、声を出さずに笑った。
「本当かどうか、つねってみましょうか」
「いいわよ」
にやりと、パン粉まみれの手を伸ばした勇太に、間髪入れず頬を向ける。
「花江さん、冗談きついっすよ」
「あら、汚れても洗うだけじゃない」
両肩をすくめた勇太が、再び作業に戻った。
「まさか、付き合うなんてね」
手際よく仕上がっていくエビフライを眺めていると、心の声が漏れた。
「今日イチの驚きでしたね」
「本当。私、人生で一番驚いたかもしれない」
片思いと決別した姪と、ふつりと音信が途絶えた友人に、無力さを感じた日々を思う。喜ばしいはずなのに、まだ信じられない気持ちが残っている。
「大丈夫ですよ。
春海さんは、歩との関係を大切にしたいって思ったからこそ、俺たちに打ち明けたんだろうし」
「……そうよね」
自分の心を見透かしたかのような言葉に、ゆっくり頷いた。仕込みの時間は単純な作業も多く、勇太と会話する時間でもある。今日の話題は、おのずと春海のこととなった。
「要は、歩の粘り勝ちっすね」
そう笑う横顔に、なぜか三年前を思い出した。この町を去ろうとする彼を引き留めたのは、なぜだったのだろう。歩が『HANA』を去り、春海とも会えず、勇太まで失うことが怖かったのか。ここで働かないかという提案に、乾いた笑みを貼りつけた勇太が、目を丸くしたのを覚えている。
付き合っていた恋人と別れてまで、好意を告げてくれたのは、あれよりずいぶん前のことだった。仕事優先で、恋愛は考えられないと答えたことは、今でも後悔していない。
『花江さんの気持ちが、はっきりしたら教えてください。いつまでも待ちますよ』
告白の後の言葉通り、勇太の態度は、ずっと変わらない。
三年ぶりの友人の再訪に、止まっていた時計の針が動き出した気がした。
目の前のエビの数は、残り数尾となっている。料理をするのは楽しいが、作る過程を見るのも楽しいと感じたのは、いつからだろう。長い間、閉ざしたままの話題に触れるタイミングを見計らう。
今はただ、目の前のトレイが、空になるのを待った。
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