第181話 「好き」と「好き」(12)

「また来るねー」と笑顔の光を送り出すと、部屋はまるで明るさを失ったかのように静まりかえる。

 財布をテーブルに置き放しだったことに気づいて、重くなった中身にそっと手を伸ばした。



『母さんはきっかけって言うか、あゆちゃんと話す理由が欲しかったんだよ』


 ──分かってる


 母がいつだってこんな自分を気に掛けている事は。


 母にたった一言「あの時の事は気にしてない」と言えば良いだけだし、何事もなかったかのように接すればきっと全ては解決する。



 それが出来ないのは、母の顔を見る度にあの時の事を思い出してしまうから。

 母を目の前に口を開けば自分の意思とは反する言葉が出てきそうで、それが何よりも怖い。


 ──もう何年も前の出来事なのに


 いまだに引きずって、根に持って、逃げてばかりの自分の態度があまりにも子供じみていてつくづく嫌になる。



「……大人になるって決めたのに」


 旅行のお土産代としてはあまりにも多い金額に母の気持ちを垣間見た気がして、やり場のない感情を持て余すと下唇を噛んだ。




 ◇



「それで、光ちゃんはそのまま帰っちゃったの?」

「はい」


 慌ただしい光との顛末を一通り話すと、春海が呆れながらも「あの子、自由ねぇ」と尊敬するように呟く。


「付き合わされる方は大変なんですけどね」

「でも楽しかったんでしょう?

 良かったじゃない」


 形ばかりのため息をつくも、まるで心を見透かすように笑われて返事に詰まった。


「歩もたまには光ちゃんくらい自由に振る舞ってみたら? 

 あたしが歩のワガママ聞いてあげるわよ」

「そ、そんなこと出来ないです!」


 悪戯っぽく春海に誘われて、慌てて首を横に振る。「歩らしいわよね」と笑われ、何気ない一言にぎしりと心が音を立てた。


『私らしさ』


 何事にも疎くて、融通が利かなくて、直ぐに泣く──負のイメージしかないその言葉がやけに響いた。そんな自分を苦々しく思うと気分を変えるように隣でハンドルを握る春海に視線を向ける。


 真っ直ぐな眼差しは前へと向けられており、ハンドルを握る左手の人差し指だけが時折何かのリズムを刻んで動いている。



 ふと、春海の左手に視線が止まった。

 細く長い指と綺麗に丸められた指先。




『春海さん、どうしてネイルやめたんですか?』


 あの時は『仕事で梱包作業をするのに邪魔だから』と説明されてすんなりと納得したものの、心底驚いた顔でどこか困った様子だった。今にして思えばあの説明は理由の一つでしかなく、自分への気遣いだったのかもしれない。


 経験豊富な春海なら『付き合う』という中に身体の関係も当然入っているに違いない。むしろ、意識していなかった自分に問題はあるのだと分かっている。


 春海のことは心から好きだ。

 けれども、自分と春海がそんな状況になることがどうしても想像出来ない。


 ──だって、あ、あんな声とか、体勢とかって


 好きな人とするセックスに憧れがなかった訳では無い。ただそれはあくまでぼんやりとしたイメージでしか無かった。


 わざとらしすぎる程の乱れたリップ音、裸の身体を無遠慮にまさぐり合う手──そうした映像が営利目的だとは分かっていても、あまりの生々しさに直視出来ず両手の隙間から観た動画は結局途中で止めてしまった。事ある毎に思い出しそうになる映像が頭をよぎる度、自分の裸を見せる羞恥心よりも春海のそうした姿を想像することへの罪悪感が心を濁す。


 それでも


 ──春海さんはあんなことをしたいと思っているのかな?


 ここ数日の間ずっと考えていた疑問が頭から離れない。


 こうして『二人で泊まりがけの旅行に行く』ということにはそういう意図も含まれているのだろうか。そもそも春海とは付き合っているのだし、恋人が身体の関係を求めるのは至極当たり前のこと。経験のない自分もそれくらいは分かっている。しかし頭ではそう理解していても、心は混乱していて何の準備も出来てない。


 ──もし、そんな状況になった時どうしたら良いんだろう?



 春海が無理強いはしないと信じているものの、この曖昧な気持ちでは二人の関係がぎくしゃくしそうで答えはまだ見つかっていない。


 トントンとリズムを刻む指先をぼんやりと見つめる。

 あの指が自分の身体に触れるとしたら


 顔

 肩

 腕

 胸

 臍

 腰


「!」


 想像にもかかわらず、思わず身体に力が入りそうになった。



 ──私、春海さんとえっちするのが嫌なのかな


 その結論にたどり着いた途端、酷く動揺する。


 望まれて嬉しいと思えないのは、自分のどこかに欠陥があるからだろうか?


 心に渦巻く戸惑いと困惑のせいで楽しみだった旅行なのにどこか落ち着かない。むしろ、知らずにおけば良かったのかもしれないとさえ思うものの、光の『付き合うなら一番大切な部分だよね』という一言が放棄しそうになる思考を何とか踏みとどまらせている。




「どうしたの?」

「! 何でもないです」


 視線を感じたらしい春海から声を掛けられて笑顔で返事をしながらも、消えてしまえと願えば願うほど膨れていく不安を押しつぶすように、そっと服の上から拳を当てた。

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