第173話 「好き」と「好き」(4)

「……はい。

 おやすみなさい」


 通話を終えてスマホを離すと、ずっと立ちっぱなしだったことに気がついた。


『今日はごめん』


 春海を見送った後しばらくして掛かってきた電話の声がまだ耳に残っている。どうやら今日のぎこちなかった雰囲気を作ったきっかけを気にしていたらしく『謝らないで下さい』と明るく告げたものの、最後まで春海の声は硬かったように思えた。



 そもそも敬語を意識するあまり、言葉の切り替えも出来ず上手く話せなかった自分が原因なのに。


 先程まで春海と繋がっていた手の中のスマホをじっと見つめる。



 ただ好きでいればいいと思っていた。


 会う度に心がふわふわと浮わついていて、会話を交わすだけで目一杯幸せで、それだけで十分だと思っていたけど、もしかしたら春海は違うのかもしれない。

 考えても分からないことばかりで、思考はすぐに行き詰まってしまう。


「付き合うって難しいなぁ……」


 自分の圧倒的な経験不足を痛感しながら、小さく息を吐いた。



 ◇



「春海さん」

「ん?」


 二人分のグラスにカラカラと氷を入れていた春海が顔を上げる。


「あの、私に何か要望とかありませんか?」

「要望?」

「こうして欲しいとか、ここを直して欲しいとか」


 不思議そうに見ていた春海がやがて先日の記憶を結び付けたのか、苦笑いを浮かべて首を横に振った。


「あ~、この間のこと?

 あれはあたし自身の問題っていうか、歩が気にすることじゃないから……」

「そんなことありません」


 差し出されたグラスにお礼を言った後、隣に座る春海と向かい合う。


「私、付き合うとか経験ないから色々気が回らない部分も多いと思います。だけど、それを理由に春海さんに我慢とかして欲しくないんです。

 本当はこういうこと言わなくても気づけば良いんでしょうけど」

「……」


 目を丸くしながらも否定を口にしない春海の態度を見る限り、やっぱり不満があるのかもしれないと言葉を続ける。

 

「きっと私にはどうしようもない問題もあると思いますし、聞いても分からないかもしれません。それでも、私はあなたの気持ちをいつでも知りたいし、ちゃんと受け止めたいんです。

 だから、その、気が向いた時で良いので、どんな些細なことでも言ってください」

「……」


 春海の気持ちが分からないなら直接聞けば良い、そんな結論に達しての提案だったものの、自分の言葉がきちんと伝わっているか不安で最後はあやふやな終わり方になってしまった。



「あの……春海さん?」

「歩、ちょっとこっちに来て」

「はい」


 俯いた春海の声が何故か泣いているように見えてほんの三十センチにも満たない距離を詰めると、春海が肩に頭を預けてきた。予期せぬ行動に驚くものの、二人分の重みで倒れてしまわないように身体に力を入れる。



「……そうだよね。

 ちゃんと伝えれば良いだけの事なんだよね」


 頭を押し付けながら聞こえてくる声に黙って耳を傾ける。そんな歩に気づいたのか、深々と重いため息を吐いて春海がようやく口を開いた。


「歩はあたしに何か望むこととかないの?」

「私ですか?

 いえ、特には。私は春海さんが一緒にいてくれればそれで十分なので」

「……そっか」


 何故か傷ついたような声が不安で、目の前の頭をそっと撫でると春海の纏う雰囲気が幾分穏やかになったように思えた。



「……ねぇ、あたしのどこか好きなの?」

「え?

 春海さんの好きなところですか?」

「そう」

「えーと、優しいし、笑顔が素敵で、私のことをちゃんと受け止めてくれるところです。それに、何でもはっきり言ってくれますし、

どんな些細な事にもきちんとお礼を言ってくれるところも。すごく綺麗で、いつも良い香りのするところとか、優しい目をしてるところも、指も長いし、声もちょっと低めで聞いていて心地良いって…………春海さん?」


 頭の中で春海の姿を思い浮かべながら話していたせいで、僅かに揺れている目の前の身体にようやく気づく。


「どうして笑ってるんですか」


 そもそも春海に訊ねたはずなのに、いつの間にか自分への質問へと変わってしまっている。今更ながらの事実に気づいて抗議の声を上げると、そのままの体勢で春海が両手を腰に回して抱きついてきた。


「歩はあたしのこと、凄く好きなんだ」

「それは……仕方ないじゃないですか。

 一応自分でも重いって自覚してますから」


 渋々と理由を説明すると、春海が再びくつくつと笑い出す。


「……呆れました?」

「ううん。嬉しかった」

「からかってますよね?」

「本心よ」

「……」


 一向に揺れが収まらない声に「やっぱりからかわれてる」と思いながら、それでも春海の身体を両手で支えていた。




「ありがと」


 ようやく満足したらしく笑みを残しながら春海が身体を起こす。結局訳の分からないまま終わってしまった話を蒸し返す事もないかと半ば諦めながら目元を指で拭う仕草をぼんやり見つめていた。


「ねぇ、また時々同じ質問しても良い?」

「え? はい。

 構いませんけど……」


 思い浮かんだままの言葉をせがまれる理由を不思議に思いながら頷くと、春海がもう一度嬉しそうに笑う。


「歩、キスして」

「!?

 わ、私から、ですか……」

「そう。

 何でも話して欲しいって言ったでしょう。

 あたし歩にキスして欲しい」

「う……」


 思いがけない願い事に狼狽える歩を励ますように春海がいつものように手を繋ぐ。


「キスするの苦手?」

「いえ、大丈夫です……その、少し待って下さい」


 大きく深呼吸をして座り直し、緩く繋いでいた指をもう一度繋ぎ直してから春海と向き合う。してもらうキスより自分からするキスの方が何倍も勇気が必要で、恥ずかしさのあまり中々視線が合わせられない。



「あーゆーむ」



 優しく呼ばれて顔を上げると、楽しげな表情で春海が待っている。急かすことなく待つその態度に大人の余裕を感じながら、ようやく覚悟を決めた。


「えっと、いきます」

「っ!

 はい」


 何故かより一層笑みを深めた春海に問いかける余裕もないまま、ゆっくり顔を近づける。近づけば近づく程、心臓が飛び出てきそうなくらいどきどきする。目測で距離を測りながら少しだけ顔を下げると、春海がそっと目を伏せてくれた。




 もう目の前は春海の顔しか見えない。


 息を止める直前に嗅ぎ慣れた香りが鼻をくすぐり、胸の奥に痛みが走る。まるで心臓を鷲掴みにされたような痛みなのに何故かそれはひどく甘い気がして、すがるように繋いでいた指を強く絡ませた。




 温かく柔らかい唇から直ぐに離れようとすると、僅かに引いた指が引き寄せられる。もう少しキスを望まれてると自覚した途端何も考えられなくなった。



 ──春海さん


 限界まで息を止めていた反動で身体は酸素を求めているものの、内側から溢れる気持ちが押さえきれなくて、薄く眼を開けた春海を真っ直ぐ見つめた。


「……好きです。大好き」


 一瞬驚いた様に瞬きをした春海が無言で離れた距離を再び詰めてきた。


「んぅ!?」


 漏れた声を飲み込まれて慌てるも、押し付けられた唇と首に回された手はいつものように直ぐには離れてくれない。咄嗟に眼は閉じたものの次第に息苦しさで手をパタパタさせると、ようやく首の拘束が緩んだ。



「ごめん。

 歩、大丈夫?」

「だ、大丈夫、です……」


 春海に笑顔で答えるも、腰が抜けたのか身体に力が入らない。心配掛けまいと隠していたものの、結局は気づかれてしまった。

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