第172話 「好き」と「好き」 (3)
「いつもお邪魔してばかりだから」と今回は自宅に春海を招いた。春海用にと買っておいたグラスは自分の物と色違いで、トレイに並ぶ二つのグラスに内心喜びを噛みしめている。
「ありがとう」
差し出した麦茶にお礼を述べて、春海がグラスを受けとった。
「わざわざ買ってくれたんだ」
「?」
「これ」と僅かに持ち上げたグラスに春海が目を細める。
梅雨明けが発表されたのはつい先日で、ここ数日は湿気を含んだ猛烈な暑さが続いている。半分ほどに減った麦茶を見ながら、エアコンの温度をもう少し下げようと腰を浮かせた。
「春海さん、暑くないですか?」
「ううん、大丈夫」
念のためにと扇風機のスイッチをつけて座り直した歩に春海が膝を突き合わせるように向かい合った。
「ね、歩。
お盆どこか行きたいところある?」
今年は平日となったお盆の三日間、木ノ下農園は基本的に休みとなる。去年までは空いた時間にバイトを入れていたものの、今年は春海と出掛けようと久しぶりの連休を取った。
「春海さんはどこかあります?」
「あたしは歩に聞いてるの」
「私は特に……春海さんとならどこに行っても楽しいですから」
「……」
仕事ばかりでろくに出掛けたこともなかった故に直ぐには思い付かず曖昧に誤魔化すと、春海が軽く眉を寄せる。
「あたしが楽しむんじゃなくて、あたしは歩と二人で楽しみたいの。そんな丸投げみたいな提案なんてして欲しくない」
「あ、そうですよね。
ごめんなさい」
春海の指摘に謝ると、スマホを開いて検索ボタンにカーソルを当てた。
──レジャー? イベント?
何で検索すればいいかな?
「ごめん」
ふと聞こえてきた声に顔を上げると、気まずそうに春海か見つめている。
「?」
「……ちょっと言い方がキツかったから」
「え?
そんなことないですよ」
一瞬遅れて理解した言葉を否定するも、春海の表情は晴れない。
「私の方こそ全然気づかなくてすいません」
楽しみにしているのは自分も同じなのに、つい春海に甘えてしまっている自分の迂闊さを内心悔やみながらスマホに視線を戻す。
「あのさ、歩」
「はい?」
「そろそろ、敬語辞めない?」
「どうしてですか?」
「付き合ってるのにいつまでも敬語って何だか距離があるっていうか……」
「え? でも……」
歯切れ悪く話す春海を戸惑いながら見つめる。歩にとって春海は尊敬する人物で、誰よりも大切な人だ。そんな相手だからこそ敬語無しで話せるとは思えない。
「あたしは敬語じゃなくても全然構わないから……」
「……はい」
真剣な表情の春海にとりあえず頷いたものの、返事をしてから敬語だったことに気づき、思わず口に手を当てる。
その様子をどこか困ったように春海が見つめていた。
◇
「失敗したぁ……」
自分の犯した失態をもう何度も悔やんでいる。歩との距離を少しでも縮めたいと思うあまり、つい思いつきを頼んだのだが予想通りあれ以降、歩が意識して話しかけることとなり、会話も雰囲気もどこかぎくしゃくしたまま別れてしまった。
──分かってる
長年友人として関わってきた歩がそう簡単に切り替えられるはずはないと。現在の二人の距離がそのまま態度となって現れているだけで、現状で満足な歩とそれが不満な自分との関係が浮き彫りとなっただけ。
実際のところ、普段から敬語でもそれほど気になってはおらず、今日の自分の態度は歩との距離を感じることへのただの苛立ちでしかない。
それすらも笑顔で受け止めれる歩の素直さが余計に自分の心の醜さを浮かび上がらせる。
──駄目だ
何もかもが空回りして上手くいかない。
自分が何もしなくとも良かった今までの恋愛とは明らかに違うことに焦りと不安を抱えながら、歩に電話をするべく車を路肩に停めた。
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