第171話 「好き」と「好き」 (2)
軽快な電子音が鳴って画面を開くと、歩からのメッセージが届いていた。小雨が降りしきる中の帰宅を心配して無理やり約束させたメッセージを律儀に守ってくれたらしい。無事自宅に着いたことに安堵の息をこぼしつつ、明日へのエールとお疲れ様のスタンプを送ると直ぐに労いとお礼のスタンプが送られてくる。
エアコンの効いた部屋は歩がいなくなった途端、急に寒さを感じる。リモコンで温度を調節するよりも布団にもぐり込むことを選ぶとそのまま電気を消した。
真っ暗な室内でスマホの画面だけが明るさを放っている。もうすぐで日付が変わる時間になるが、歩はもう眠ってしまっただろうか。明日は丸一日バイトが入っているらしい彼女のスケジュールがそれ以上のやり取りを躊躇わせる。メッセージを諦めてアプリのカレンダーを開くと過去を遡った。
今日は歩と付き合い始めて68日目。
自分に恋人が出来た。
年下で同性という今まで全く経験のない相手に戸惑いはあるけれど、想像していた通り歩は自分を大切に想って接してくれている。
そう、不満なんてない。
「……」
思わずつきそうになったため息を寸でのところで深呼吸に変える。大丈夫、幸せは逃げていってないはずだ。
二ヶ月という数字は一般的に考えれば付き合い始めたばかりといっても過言ではないのだろう。ただ、歩と知り合ったのは三年前で以前から誰よりも親しい間柄であったことは確かなのだ。
だからこそ、つい考えてしまう。
三年間も自分に片思いしてくれていたのだから、付き合った途端無邪気に甘えてくれると思っていた。あるいは、恋人として積極的に触れあいを求めてくるのだと思っていた。
そんな期待も含めた予想は結果としてことごとく覆り、二ヶ月経った今も歩との関係はあまり変わっていない。口調も態度も距離感さえもそのままで、本当に付き合っているのかと不安になる時さえある。
強いて言うならば帰り際のキスが唯一恋人としての触れあいで、それすらもこちらから求めなければ決して手を伸ばしてこないのだ。
求め、求められる恋愛が当たり前だと思っていた。
だからこそ、歩が求めてこない事態は想定していなかった。
平日はお互い仕事があるからと週末しか会わないものの、二人で過ごす時間はいつだって心地よく楽しい。今日だって思いつきで作ったパンケーキを共にして、笑顔で次の約束を交わして。
並んだ隣を見ればいつだって目が合うし、自分に向けてくれる笑顔は常に優しい。
でも
足りない。
足りない。
毎日好きだと言って欲しい。
これでもかというくらい甘やかして欲しい。
恋愛では常にリードして欲しい。
──ああ、まただ
自分の奥底にずっと眠る願望がむくむくと顔を出しているのに気づき、軽く頭を振る。
脳裏に浮かぶのは子供の頃初めて夢中になった恋愛漫画の断片的なシーン。ごく普通の女の子が学年一のイケメンと恋に落ちるというストーリーだった。今思えばあまりにもベタ展開にも関わらず『誰かを好きになる』という感情を初めて教えてくれたその漫画は衝撃的で、いつしか主人公に自分を重ね、相手の男の子が向けてくる言葉に酔いしれた。恋を知らない子供心に向けられた甘い台詞とときめく展開に頬を染め、何度同じページを読み返しただろう。
「自分にもいつかきっと王子様が」と信じて疑わなかった頃を思いだして、懐かしさと共にほろ苦い気持ちを噛みしめる。
もはやタイトルすら忘れてしまった漫画なのに現実の恋愛を知った今でも心のどこかでそんな願望を捨てきれないでいる自分に失笑してしまう。
自分が選んだのは触れるだけのキスですら固まってしまう恋愛初心者の女性なのに。
「……あたし、歩に何を求めてるんだろう」
こぼれ落ちた自嘲が心をずしりと重くする。
歩に求めるべきことじゃないと頭では分かっている。
──それなのに
この関係の未来が見えなくて時々酷く不安になる。心の奥に漠然とした灰色の感情が澱の様に溜まっているのを自覚して、思わず硬く目を閉じた。
いつもの週末と何ら変わらなかった一日にそれ以上考えることを諦めると、スマホの電源をそっと落とした。
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