第170話 「好き」と「好き」 (1)
カートに積まれた幾つもの段ボールの箱を床に下ろすと、封をしてあるガムテープを勢いよく剥がす。ビッという小気味良い音の後に箱を開封すると、中に詰められている袋とラベルを確認してから順に並べていく。
「いらっしゃいませ!」
誰かが後ろを通る気配に反射的に笑顔を浮かべながら、通路の邪魔になっていないか辺りに目を配る。
手早く、丁寧に
開店のメロディが聞こえたのは少し前で、バイトの終了時間まであと二時間を切ったはずだ。
今日は土曜日、一週間のうちで一番楽しみな曜日に心はどうしようもないくらい弾む。
「……頑張ろ」
思わず緩む口元を左手で隠すと、空いた段ボールを手早く折り畳んで次の箱に取りかかった。
階段を上がった先にある307号室のインターフォンを押す前に今一度自分の格好をチェックする。おしゃれに疎いせいで今日も似たような格好ばかりでしかないし、新しい服が欲しいもののお金もない。ないない尽くしの現状にどうすることも出来ないのが目下の悩みだ。
「……お金欲しいな」
あれもこれもと思い浮かべながら呟いた願いはざっと見積もっても到底手が届く金額ではなく、がっくりと肩が落ちる。
それでも気を取り直して手櫛で髪を整えた後、深呼吸を大きく二回する。ここに来る前にシャワーを浴びたばかりだけどヘルメットに蒸れた髪が気になって仕方ない。汗が滲む額にハンカチを当て、もう一度全身を確認してからインターフォンに手を伸ばした。
『はーい』
直ぐに聞こえてくる声に先程の憂いは綺麗さっぱり消えて高鳴る胸を押さえつつ、ただ目の前のドアが開くのを待った。
「そういえば、春海さんの話していたあのチョコ、新しい味が出てましたよ」
ホットプレートでパンケーキが焼けるのを待つ間、品出しで見かけた新発売の商品を思い出す。
「確か、キャラメルナッツだったと思います」
「キャラメルナッツかぁ~、何だか想像つかないわねぇ」
隣でフライ返しを持つ春海が微妙な顔を浮かべた。二つ並んだパンケーキの生地は先程流し込んだばかりで、まだ周りすら固まっていない。それでも次第に広がる甘い香りに生地を早く返したいらしく、先程から視線はちらちらとプレートへと向かっている。その姿が微笑ましくて、つい口元が緩んだ。
「ん?」
そんな歩の視線に気づいたのか、春海が怪訝な表情を浮かべる。
「何も言ってませんよ?」
「嘘、さっきにやにやしてたもの。
あ、分かった! あたしが昔お好み焼きをひっくり返すのを失敗したこと思い出してたんでしょう」
「そういえば、そんなこともありましたね」
「何、その今思い出したみたいな顔!
今度こそ成功させて見せるわよ! 見てなさい」
言葉とは裏腹に笑顔の春海が軽く肩をぶつけてくるのを笑いながら受け止める。
少しだけ増えたスキンシップと常に隣に座るようになった春海との距離が改めて両想いになった事実を表しているようで、二ヶ月経った今でさえこの状況が夢ではないかと思えてしまう。
「あ、右側のはそろそろ返しても良いかもしれません」
「右? 分かった」
触れた身体にどぎまぎしている自分を悟られないように薄めの生地だったパンケーキを指させば、春海が直ぐにフライ返しを持ち直す。幾分早めのタイミングは返すのに多少のコツが必要だろうが、崩れた時は自分が食べれば良いかと思いながら春海の動作を見守った。
靴を履いて、ショルダーバックを背負い直す。湿気も多く雨が続く毎日はもう少しだけ我慢すればじきに終わりを告げると知っているからこそ、帰りの濡れたレインコートに袖を通すのも苦にならない。
ドアの向こうでしとしとと音を立てる雨音に気づいた春海が軽く顔をしかめた。
「ねぇ、やっぱり今度は車で迎えに行くわよ。
こんな雨の中帰るのも大変でしょう」
「大丈夫ですよ。
明日から天気が良いみたいですし、もうすぐ梅雨も明けるみたいですから」
事ある毎に甘やかそうとしてくる春海に笑って返すと「お邪魔しました」と立ち上がった。
「気をつけてね」
春海から差し出された手に自分の手を重ね、指と指とを繋ぐ。そっと目を閉じると、唇に柔らかい感触が重なった。
触れるだけの優しいキスを受け止めた後、離れてしまった唇を名残惜しく思っていると、軽いリップ音と共にもう一度キスをしてくれる。
ゆっくり眼を開けてから微笑むと、同じタイミングで春海も笑みを浮かべた。
「おやすみなさい」
「おやすみ。
気をつけてね」
いまだ慣れずに赤くなる顔も、唇が重なる度に思わず力んでしまう指も、キスの間ずっと止めている呼吸もきっと春海には知られてしまっているに違いない。それでもこの瞬間がどうしようもないくらい嬉しくて、幸せで、名残惜しく思いつつも繋いでいた指を離してドアノブを握る。
振り返り様にもう一度手を振ってから、静かにドアを閉めた。
「ふふっ」
──好きだなぁ
幸せ溢れる気持ちを噛みしめながら、また続く一週間後の今日を早くも待ちわびていた。
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