第168話 変転(8)

『それで、どうして付き合えないって言ったの?』


 右往左往する会話がようやく戻り、光が先を促してくる。


「違う。付き合っても上手くいかないって言ったの」

『同じことじゃん。

 その人と仲良いんでしょう? 何も問題ないのにどうして断ったの? そんなの付き合ってみないと分かんないじゃない。もしかして、大して好きでもない人だった?』

「ううん。

 その、…………す…………好き、だけど」

『~~~!!』


 矢継ぎ早に向けてくる質問にたじろぎながら、ようやく絞り出した声に何かをばんばんと叩く音が聞こえてくる。


『そ、それなら、尚更じゃない』

「……大丈夫?」


 何故かはぁはぁと荒い息遣いが聞こえてきて光に訊ねるも『アタシのことは気にしなくて良いから!』と言い返される。


『あ、もしかしてあゆちゃんみたいな人に理解がない人だったとか?』

「私のことはちゃんと知ってくれてる」


 歩の事情をある程度は知っているらしい光の指摘をあっさり否定すると、光が不思議そうな声になる。


『じゃあ、何が不満なの?』

「不満じゃないよ。

 不満なんてない」

『でも、あゆちゃんが断ったんでしょう。

 それどう見てもあゆちゃんの我が儘じゃない』


 光の指摘にむっとしつつも、言いたくなかった原因を渋々口にした。


「だって……その人、異性愛者だから」

『……は?

 え? どういう意味?』


 心底理解出来ないといわんばかりの声に幾分苛立ちながらも昨夜のやり取りを思い出し、またちくりと痛む胸を押さえて続ける。

 

「その人今まで男の人としか付き合ったことないの。

 きっと、私と付き合っても上手くいかないに決まってるし、そんなことでもう一度会えた大切な人を失いたくないの。

 だから、このままの友人関係が良いに決まってる」


『……あゆちゃん』

「何?」

『ほんとにその人のこと好きなの?

 アタシにはそう思えないけど』

「え?

 も、勿論好きに決まってるじゃない!

 私春海さんのこと誰よりも大切に思ってるんだから!」

「ふーん、その人ハルミさんて言うんだ」


 電話越しの声がにやけたものの、直ぐ元の口調に戻る。


『だってさぁ、本当に好きなら何がなんでも一緒にいたいって思うし、友達以上の関係になりたいって思うじゃん。そのハルミさんは自分のセクを変えても良いって思えるくらいあゆちゃんのことが好きなんでしょう?』

「……分からない」


 歩の呟きを光が『あはは』と笑い飛ばす。


『好きじゃなきゃ付き合おうなんて言わないって。

 付き合うことに不安があるのは皆同じだよ。

 アタシだって告白する前は断られたらどうしようって凄く悩んだし、どんなに仲が良くても返事をもらう時は緊張したもの。

 だから、あゆちゃんが友達以上の関係になるのを怖がってるのは分かるよ』

「……私……怖いのかなぁ」


 ──歩は結局何も変わってない。

 自分が傷つきたくないだけじゃない。

 傷つくのが怖くて誰からも距離を置こうとしているだけじゃない。


 春海の言葉が頭をよぎり、思わず呻き声か洩れた。そんな歩の態度に気づいたのか『あゆちゃんは拗らせてるからねぇ』 と光が笑った。


「で、でも、私と付き合ったら春海さんは同性愛者になっちゃうんだよ? そんなの良いはずがないじゃない」

『は? 何言ってんの?』

「何って、同性が好きなだけで変な目で見られたり、悪口言われたり嫌な思いばかりしちゃうんだよ?

 だから、私は春海さんにそんな嫌な思いなんてさせたくないの!!」


 過去の出来事を思い返していつの間にか額に滲んでいた汗を袖で拭うと、息苦しさを覚えて忘れていた呼吸を再開する。

 

『……もしかして、それってあゆちゃんの実体験?』

「え? あ、うん……」

『そっかぁ~』


  酷く困ったような声が電話から聞こえてきて、高ぶった感情の行き場を失った。当たり前のことを言ったつもりなのに反論すらされなかったことで一気に不安が高まっていく。何かを考えるように聞こえていた声がやがて止み、名前を呼ばれて居ずまいを正した。


『あのね、アタシは離れてた時間が長かったからあゆちゃんのことちゃんと知ってる訳じゃないけど、それなりには分かってるつもりだよ。

 それは先に言っておくね』

「うん、分かった」

『あゆちゃんサイテー』

「……え?

 どうして?」

『そんな理由で付き合わないなんて、ハルミさんが可哀想』

「……」


 告げられた言葉の意味が分からなくて黙った歩を呆れた口調で光が続ける。


『あゆちゃんが外を歩いてて、すれ違う人たちの関係とかいちいち気にする?』

「……しない」

『でしょう?

 でも、あゆちゃんは見ず知らずの他人の目が気になるから付き合いたくないって言ったんだよね』

「わ、私っ、そんなつもりじゃ!」

『ううん、あゆちゃんは自分の見栄を気にしてるんだよ。ハルミさんの隣にいて同性愛者だと思われるのが恥ずかしいって思ってる。

 周りばかり気にして一番大切な人のことを考えないなんて、そんなの変だよ』

「!!」


 ──あたしの気持ちなんてこれっぽっちも考えてない


 傷ついた顔の春海にも同じことを言われたのを思い出す。


『そもそもさぁ、あゆちゃんはそのハルミさんが同性愛者になったら嫌いになるの?』

「そんなことない!」

『そうだよね。

 アタシもあゆちゃんが誰を好きだろうと気にしないよ。だってあゆちゃんはあゆちゃんだもの』

「……うん」


 光の伝えたいことが何となく分かって押し黙った。


 春海の笑顔に見とれた。

 挫けない強さに憧れた。

 優しさに惹かれた。

 自分だけに見せてくれる弱さを好きになった。


 全ては春海だから好きになった。

 異性愛者という後付けされた理由だけで、いつの間にか彼女を想う気持ちをどこか蔑ろにしていたのかもしれない。



 ──ねぇ、歩。

 あんたが同性愛者だからってあたしが態度を変えた? 軽蔑したり、距離を置くように見えた?


 三年前、冷たい水の中で春海から言われた台詞。


 ──あたしにとってあんたが同性愛者なのはそれくらい些細な事なのよ


 あの時は受け止める余裕すらなかった言葉が今になって鋭く胸に突き刺さる。

 告白した時でさえ自分の気持ちをきちんと受け止めてくれた春海の言葉を、自分は本当に信じていただろうか。

 同性愛者と異性愛者の間に見えない壁があると信じて疑わなかった自分は果たして正しかったのか。



 思いがけない言葉を次々の投げつけられて、頭の中は混乱するばかりだ。それでも自分の考えが間違っていたかもしれないことだけは分かる。そんな歩の雰囲気を感じたのか、光が続けた。


『あのね、恋をするって素敵なことなんだよ。

 アタシは彼しか知らないけど、それでもきっと性別なんて関係ない。楽しくて、嬉しくて、時々喧嘩もするけど、好きな人と一緒に過ごせるのは凄く幸せだと思ってる。だから、あゆちゃんも好きな人と過ごせるなら絶対後悔なんてしないと思うし、きっと周りの目なんて気にならないよ。

 仲が良いなら、今までも二人で過ごしてたんでしょう? 楽しくなかった?』


「楽しかった」

『そうだよね』


 初めて同意を得られたように、うんうんと頷く光の声が明るくなった。



 春海の部屋からの帰り際、いつも「早く暖かくなれば良いのにね」と言いながら当たり前のように上着を羽織った姿を思い出して胸がじわりと熱くなる。


 もしかして、自分との時間を名残惜しいと思ってくれたのだろうか?

 自分と同じ様にもう少し一緒にいたいと感じてくれていたのだろうか?



『きっとハルミさんはさ、あゆちゃんの特別になりたいって思ったんだよ』

「……そうなの?」


『それは本人に聞いてみて』と笑う声が続く。


『そもそもさぁ、二人の関係が変わったって誰も気にしないし、言わなきゃ知らないよ?

 そんなに気になるなら目立つ行動しなければ良いだけで、いちゃつきたかったら二人きりの時にすれば良いじゃない』

「いちゃつくなんてしないよ」


 想像も出来ない未来を抗議すると『はいはい』とあっさり流される、


『大体悪口言う奴って羡ましがってるだけなんだよ。そんな下らないことを気にするくらいなら、ハルミさんともっともっと幸せになっちゃえ』


「……うん」


 まるで自分たちの未来が明るいものであると分かっているかのような光の言葉にようやく頷いた。

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