第167話 変転(7)
しんと静まった室内で歩が沈黙を破る。
「春海さんの気持ちは本当に嬉しいです。
だけど、ごめんなさい。駄目なんです」
「……何が駄目なのか聞いて良い?」
落ち着きを取り戻した静かな春海の声が耳に届く。
「春海さんは異性愛者で、私とは違います。
だから、きっと付き合っても上手くいくなんて思えません。……それに」
「それに?」
「春海さんには普通でいて欲しいんです。
私のように普通じゃない」
パン!
左頬に衝撃が走り、視線が揺らいだ。じんじんとした痛みに驚いて顔を向けると、目の前の春海を呆気にとられた顔で見つめる。
「……春海さん?」
何故叩かれたのかというよりも、酷く傷ついたようなその表情が心配で名前を呼ぶ。
「歩は……」
唇をきつく結んで肩を震わせた春海が言葉を途切れさせる。まるで、泣くのを必死に我慢しているかのように何度も瞬きを繰り返してから、ようやく声を絞り出した。
「歩は結局何も変わってない。
自分が傷つきたくないだけじゃない。
傷つくのが怖くて誰からも距離を置こうとしているだけじゃない。
……あたしの気持ちなんてこれっぽっちも考えてない」
「……」
「帰る」
俯きながら手早く荷物をまとめた春海が立ち上がる。見送る間もなくパタンとドアが閉じ、やがて車のエンジン音が遠ざかっていった。
◇
朝からざあざあと降りしきる雨音にまどろみから覚めた。これだけ降れば今日の仕事は休みだろうと思っていると、案の定木ノ下から電話が掛かってくる。
「もしもし、……はい。
分かりました」
数秒で終えた連絡を終えるとスマホを投げ出して、布団に寝転がった。昨日の出来事からろくに眠れないまま迎えた朝に心は乱れたままで、こんな時こそ仕事に集中することで何も考えずに過ごしたかったのにそう都合よくはいかないらしい。
布団をたたむと、テーブルに置いたままの小さな箱が目に留まった。ハート型の可愛らしい箱の中には十枚程の個包装されたクッキーが並んでいる。色とりどりのそれらの中に何故か定番の黒い色は入っていないことを不思議に思うものの、直ぐにチョコが苦手な自分への心遣いだと気づき、昨夜の傷ついた春海の表情を思い返してまた胸が痛くなった。
自分が傷つくのは構わない。
ただ、一番傷つけたくない人を傷つけてしまった。
──どうしよう? どうすれば?
単純に謝ってすむ問題ではないことは分かっている。
でも自分の何がいけなくて、どうすれば良いのかが分からない。
このままでは二度と会えなくなるかもしれないという恐怖と焦燥感を振り払い、何とかしてこの事態を理解しようと必死に考えを巡らせた。
だらだらと時間だけが過ぎていたらしく、ふと見上げた時計に愕然とする。
「買い出し行かなくちゃ……あ、洗濯物」
忘れていた日常を次々と思い出してはあたふたしていると、スマホが一瞬震えてメッセージの受信を知らせる。
「……なんだ」
春海かと思った期待は直ぐに失望に変わるものの、妹からの連絡とあれば無視も出来ず『HIKARU』と表示されたメッセージを開いた。
『みそ汁味無し』
何かのキャラクターが不思議そうに首を傾げるスタンプと共に送られてきた一言にくすりと笑うと、心当たりを送る。
『味が無いって、ちゃんと出汁入れた?』
『それな』
『おけ』
『今日休み?』
次々と送られてくるメッセージに対応出来なくて、慌てて文章を打ち変える。
『雨が降ったから休み』
「わ!」
既読が付いた数秒後、突然鳴り出した着信音に驚いてテーブルにスマホを落としかけた。どうやら遅い返事に焦れたようで電話した方が早いと判断したらしい。電話の向こうのせっかちな妹に苦笑いしながら通話ボタンをタップする。
「もしもし?」
『あゆちゃん、今何してんの?』
「え、特に何も」
『んじゃ、丁度良かった。
暇で仕方なかったの』
あまりにも単純な理由に笑いを堪えながら話を続ける。
「その前に、おみそ汁はどうするの?」
「ああ、出汁買ってなかったからもういいわ」
「勿体ないよ」
「いーのいーの。
どうせコップにお湯と味噌入れただけだし、具も入ってないもん」
「……」
話は終わったとばかりの口調にもはやどこから突っ込んで良いものか呆れつつも、自炊をしようとする努力だけは誉めるべきか悩む。
「ちゃんと料理しようとしてるじゃない。
独り暮らしには慣れた?」
『ご飯作るのだけがめんどい。
あとは寮でやってたのと変わらないから大したことないんだけど。それと帰ってきて誰もいないのが辛いわ』
「そっか」
中学高校と寮生活を送っていた妹は、大学進学を機にこの春から独り暮らしを始めたばかりで、常に友人に囲まれていたらしい彼女にとって一人で過ごす時間は退屈なものでしかないのだろう。
しばらく前からあれこれと理由をつけては掛かってくるようになった電話を受けながら、ろくに姉らしいことをしてやれなかった自分をこうして頼ってくれることに嬉しさを感じて相づちを挟む。
『それで、今度合コンの誘いが来ててさぁ。
行ってもアタシ酒飲めないじゃん。だからどうしようかなって思ってんの』
「合コン!?
え、そんな怖いことしちゃ駄目だよ!」
つい春先まで高校生だったとは思えない光の発言を咎めると、僅かな沈黙の後げらげらと笑い声が聞こえてきた。
「あゆちゃん過保護~!
父さんでもそんなこと言わないよ」
「だって、合コンって知らない人とお酒飲むんでしょう?
もし、騙されて強いお酒飲まされたりとかしたらどうするのよ! お酒って飲み馴れてないと簡単に潰れちゃうんだよ』
『知らない人じゃなくて、同じ学科の人たちだよ。
それにアタシ未成年だし、行くならちゃんとジュースにするって』
歩の必死な制止に笑いを含んだ声が返ってくる。
『まあ、あゆちゃんがそこまで言うなら、今回は『姉が心配してるからやめときます』って言っとくわ』
「え? でも……」
『大丈夫、大して仲の良い人からの誘いでもなかったから。
それに彼氏なら間にあってるしね』
「!……光、彼氏いるんだ」
「ん?
話してなかった? いるよ」
離れて暮らしていた時間の方が長すぎて初めて知った事実に驚きつつ、ふと、春海のことを相談してみようかと思いつく。
「光、あのさ……」
『ん?』
「その……あの……」
『何?』
「あのね、その、ゆ、友人だと思ってた人から……き、嫌われそうに、なっちゃって………でも、何がいけなかったのか……あ、その人は全然悪くなくて、むしろ私が傷つけたっていうか、謝らないといけないのは分かるんだけど、でも、」
『あゆちゃん、落ち着いて。
何言ってんのか全然分かんない』
『ほら、深呼吸』と光に言われてスマホを持ったまま大きく呼吸を繰り返す。必死さの滲む声に何かを感じたのか、光の口調が優しくなった。
『それでどうして嫌われそうになったの?
あゆちゃんの勘違いじゃなくて?』
「私が……」
あの時の会話をなぞるように心の中で思い返す。
付き合うことを拒否したから?
──違う
確か、春海さんから駄目な理由を訊ねられて
「付き合っても上手くいかないって答えたから……?」
『は?
恋バナかよ!』
「ひ、光?」
電話の向こうから聞こえる絶叫に驚いてスマホを遠ざけると恐る恐る呼び掛ける。
『ねえねえあゆちゃん!
何? 何? 何があったの?』
「ちょっ、急にどうしたの?
光、落ち着いて」
『落ち着いてなんていられないよー
コミュ障あゆちゃんからまさかの恋バナが聞けるなんて! あー今すぐにでもそっちに行きたい!』
「え!?
いや、来なくて良いからね」
光の言葉に念のため釘を刺しておくものの『分かってるって』と応える声にはどこか残念さが滲んでいるように聞こえた。
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