第166話 変転(6)
「おぅい」
南瓜の摘芯をしていた手を止めて顔を上げると、太陽を背にした木ノ下の黒い影が自分を見下ろしている。
「はいっ?」
「昼だぞ」
「はい!
え……おひる?」
一言告げただけでさっさと歩き出した木ノ下の後ろ姿をしばらく見つめてから、飲み込めなかった言葉を理解して慌てて立ち上がる。青い蔓が広がる畑を抜け出してハウスへと急ぐと、弁当を広げていた松山と東が足音に気づいたように同時に振り向いた。
「時報は聞こえんかったね」
「全然気づかなかったです……」
「そら、めずらしか」
もごもごと笑う松山に曖昧に笑い返すと、椅子を引いて腰を下ろす。
「あ、お弁当」
バックの中に入ったままの弁当に気がつき、再び立ち上がる歩を箸でご飯を摘まんだまま東が心配そうに目で追った。
「あんた大丈夫ね?
ここんとこえらい落ち着かんなぁ」
「あはは……
気をつけます」
東の指摘に自分でも苦笑いしながら改めて椅子に座り直すと、弁当箱を開く。終わり間近の三人の食事のペースに追い付くように、器に詰めてあるご飯を口に押し込んでいった。
五月の上旬とはいえハウスの中は既に真夏日並みの気温となっていて、午後一時までの休憩時間は誰一人中で過ごそうとはしない。歩も最近の定位置であるハウスの裏の資材置き場に移動すると、うず高く積まれた肥料袋の上に腰を下ろす。大きな木が何本もこちらに枝を伸ばしているお陰でこの場所は涼しく、随分と過ごしやすい。
『使わないホットプレート持って帰ったから、今度お肉焼こう!』
昨夜スタンプと共に送られてきたメッセージを見返して、連休中のトークをぼんやり遡っていく。法事で帰省していた春海からのメッセージは連休前と変わらず、まるで夢を見ていたかのようにさえ思える。
「………」
いつの間にかあの時の感触を思い出すかのように人差し指で唇をなぞっている自分に気づいて手を止めた。
春海からキスされた。
いまだに信じられない事実に寝ても覚めてもここ数日振り回されっぱなしでいる。
確かに春海に好意は打ち明けたものの、このままの友人関係で良いと伝えていたし、実際あの時までは何も問題なかったはずなのに。
連休の間会えなくなるのは寂しかったが、それほど未練のある顔をしていたのだろうか?
それとも、あの会話の流れで自分を不憫に思っての行動だったのか?
『どうしてキスしたんですか?』
あの日の別れ際を思い出してもう何度打ち直したか分からない質問を入力し、結局答えを訊ねる勇気がなくて再び消してしまう。
長年片思いしていた相手の初めて触れた唇は緊張しすぎて正直全く覚えてない。けれども、春海の声と纏う香りが普段よりずっと近い位置にあったのは覚えている。そして何より自分を見つめるその表情がひどく嬉しそうに見えたことも。
絡められた指も、添えられた手も、触れた唇も割れ物を扱うかのようにどこまでも優しくて、拒否しようと少しでも反応すればきっとすぐに止めてくれていた。思いがけないキスだったものの、常に自分に選択権はあり、それを受け入れたのはあくまで自分の意志なのだけれども、今となっては後悔ばかりが先に立つ。
──だって、春海さんは
春海は現在付き合っている相手もいないし、気になる相手の存在も聞いたことはない。万が一、億が一にでも自分に好意を寄せてくれたと思いたかったが、春海の態度は普段と何も変わらないもので、友人以上の感情を寄せているとは思えなかった。それにそういう行為は恋人同士でするべきもので、そもそも自分たちは付き合ってもいないのだ。
これ以上考えることを諦めるように軽く頭を振って立ち上がる。昼休憩はもう少し残っているが一足早く作業に取りかかろうとその場を立ち去った。
◇
ピンポン
緩い音のインターフォンが来客を知らせ、思わず肩が跳ねる。予定より十分ほど早めの到着に覚悟を決めるよう深呼吸を一つしてからドアノブを回した。
「こんばんは」
「……こんばんは。
あの、どうぞ」
両手それぞれにビニール袋を提げた春海が入りやすいようにドアを広げて部屋に招く。
「お邪魔しまーす」
あの日を意識して狭い玄関で身体が重ならないようぴたりと壁に張りついた歩に春海が少しだけ困ったように笑みを浮かべて奥へと入っていく。
「平日だったのに、ごめんね。
週末だと賞味期限とか心配だったからさ」
「いえ。
私が取りに行けば良かったんですけど……」
「ううん。
ほんとはあたしが歩に会いたかっただけなの」
「……」
返事に困って笑みを作った歩に雰囲気を変えるよう春海がテーブルに広げたお土産用のビニール袋を丸めながら「これとこれが冷蔵で」と説明していく。
「口コミで買ってみたのもあるけど、あたしが美味しいと思ったから歩もきっと気に入ると思う」
「ありがとうございます」
「……歩?」
頑なに他人行儀な態度を崩さない歩がどこか真剣な表情をしていることに気づいたらしく、春海が笑みを消した。
「どうしたの?」
「春海さん。
この間の事で話があります」
「!
この間の事って……キスしたこと?」
「はい。
あのキスはお互い無かったことにしませんか?」
歩の言葉に春海が顔色を変える。
「あの、もしかして、嫌だった?
だったら、」
「違いますっ!!」
自分の発した声が予想以上に大きくて、驚いた様に歩が手を口に当てる。落ち着きを取り戻そうと二、三度呼吸を整えてから、ようやく口を開いた。
「違います。
私は……私の事はどうでも良いんです。
春海さんはもっと自分を大切にして下さい。だから、」
「……何よ、それ」
明らかに怒気の混じった声と睨み付けるような視線に歩がたじろいだ。
「馬鹿言わないで!」
「!?」
「何が『もっと自分を大切にして欲しい』よ!!
その台詞そっくりそのまま歩に返すわよ。一番自分を大切にしてないのは歩じゃない!」
「な、何を理由にそんなこと……」
「理由? わざわざ言って欲しいわけ?
あんた、あたしが好きなんでしょう?」
「それは! そうですけど……」
「それなら、どうしてあたしを望まないのよ!
それとも、歩にとってあたしはその程度の人間なわけ?」
「っ! そんなことありませんから!」
春海が自身を卑下する言葉に気がつけば言い返していた。冷静に話し合って穏便に納めようとする考えは春海の挑発的な言葉に吹き飛んでしまい、握り拳に閉じ込めていた今までの感情を爆発させる。
「私があなたを諦めるのにどれだけ必死だったかなんて、春海さんは知らないでしょう?
三年かかってやっと友人で良いって思えるようになったんですよ!
私は本当に春海さんの幸せを願ってるんです。それなのに、どうしてそれを分かってくれないんですか!」
「あたしの幸せを願うなら、どうしてそこに自分を入れないのよ。
あたしは歩と幸せになりたいの!」
「え?」
一瞬思いがけない言葉を聞いた気がして、歩がぴたりと動きを止める。言い争いが続いたせいで荒く息をする春海が場の雰囲気を改めるようにごほんと咳払いをした後、歩の両手を掴んだ。
「あたしは歩となら幸せになれるってようやく気づいたの。
だから、あたしはこれからもずっと歩と一緒にいたい」
「…………駄目、です」
春海の言葉に思わず俯いたまま首を横に振る。拒絶されると思わなかったのか、春海が息を飲む音が聞こえた。
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