第165話 変転(5)
歩を見送った後、一人になったフローリングの床に腰を下ろす。
『私は幸せですよ』
以前話してくれたように、二度と会えなかったと覚悟していた関係がこうして変わったのだからその言葉も理解できるし、実際そう告げた顔に無理も憂いも無かった。
──だけど
実らない恋心だけを支えに傍にいる。優先すべきは常に
──そんなの本当の幸せなんかじゃない
辛い過去を抱えていたからこそ、歩はもっと愛され、幸せにならなければいけないのだ。
そして、それが出来るのは
──きっと、あたしだけ
自惚れではなく、これは紛れもない事実。
『私、19年しか生きてないですけど、この先の人生であなた以上の人は現れないって断言出来るくらい、あなたの事が好きです』
満開の桜と共に告げられたあの時の言葉がよみがえる。歩には告げていないものの、一度だって忘れたことはなかった。あれほど真剣にそしてひたむきに気持ちを伝えられたことなんて今までなかったから。
決して平穏ばかりとは言えなかった三年間、不安で仕方なかった時、孤独に潰されそうになった時、自暴自棄になりかけた時、歩のあの告白が自分を支えてくれていた。容姿も普通だし、性格も可愛くない自分が他人より優れているなんて思ったことなどない。それでも、自分を誰よりも『特別』に思ってくれた歩にだけは嫌われたくない、歩に顔向け出来ない生き方だけはしたくないと必死に言い聞かせてきたのだ。
「……そう、だよね」
知らずのうちにずっと避けていた覚悟が決まったように思えた。
歩の気持ちに絆されたのかもしれない。
幾分の同情があるのも否定しない。
孤独な心が救いを求めての勘違いだとしても、それで構わない。歩が幸せなら共に喜べる自信があるし、求められるなら身体を重ねても良いとさえ思える。
この感情が恋ではないことは分かっている。
それでも、きっと
「好き、なんだろうなぁ」
触れた手にときめかなくても、緊張でかちこちになった歩が可愛くてもっとその表情を見たいと思ったのは確かで、何よりも気がつけば歩の事ばかり考えている。
もう恋愛はこりごりだと思っていた。
結婚まで考えていた恋人との破局は心に確かな傷を残していて、また傷つくことが嫌だったから。
だけど、歩なら傷つけるようなことはしないだろう。自分を大切にしてくれるだろうし、誰よりも好きでいてくれる。
そう、好きでいるよりも好きでいて欲しい。
受け身でしかない思いが今の歩に渡せる精一杯の気持ちだとしても、少しだけこれからの未来が明るくなったように思えた。
◇
5月の大型連休を目前にしたその日は高之山市から少し離れた自然公園へ遠出の予定だったが、出発前にパラパラと降りだした雨に遠出を諦めて引き返すことになった。
「今日だけ雨って……ほんとついてないわよね」
「仕方ないですよ。
天気予報も元々雨でしたし」
「だけど、こんな時に限って予報が当たらなくても良いじゃない」
「あ~あ」と気落ちしながら窓の外に視線を向ける。降水確率50%の空は少し前から雨が小降りとなり雲の隙間に所々光を差し込んでいて、余計に無念さを助長させる。
「きっとまた来年も同じイベントがありますよ」
「……そうね」
隣に並んで空を見上げていた歩に明るく励まされ、渋々頷いた。イベント自体は大型連休まで開催されているのだが、お互いの都合で次に会うのは連休後だ。
つまり、今日が最初で最後のチャンスだった訳で、行けなかったことよりも楽しみにしていた歩の願いが叶わなかった事態に落ち込んでいるのが本当の理由なのだが、当の本人はきっと気がついていないだろう。
「雨も止んだみたいですし、そろそろ帰ります」
「もうそんな時間だっけ?」
部屋でのんびりと過ごしていた時間はあっという間に経っていたらしい。宣言通り友人としての関係に徹する歩との距離はあれから一向に変わらない。それがもどかしくもあり、その一方でどこか安堵もあって、帰り支度をする歩に『もう少し過ごさない?』という言葉を今回も飲み込むことにやきもきしつつも立ち上がる。
いつものように玄関で靴を履く後ろ姿を眺めてから自分の靴に手を伸ばそうとすると、歩が防ぐように立ちはだかった。
「見送りはここで十分です。
春海さんはゆっくりしてください」
「駐車場に行くくらい構わないわよ」
「気持ちだけもらっておきます。
お邪魔しました」
どこまでも気を遣わせまいとする態度にむっとして、思わず歩の袖を掴む。引き留められた歩が、一瞬春海の手を見つめてから困ったように微笑んだ。
「どうして遠慮するのよ」
「いえ、遠慮じゃないです」
「あたしがしたくてやってるのよ。別に良いじゃない」
「それでも、その……」
「何?」
「……期待しちゃいますから」
「!」
笑って流してくれると思ったらしい歩が目を丸くする春海に気づいた途端、恥ずかしくなったのかじわじわと赤くなった頬を隠すように慌てて下を向いた。
「歩」
「!?」
自分の立ち位置を守るように握りしめたままの手に左手を重ねると、驚いたように歩が顔を上げる。三和土の高さが二人の身長差と同じらしく、目の前にある顔の位置はほぼ変わらない。
それ以上動かなかった左手に安心したのか僅かに解れた手にそっと指を絡ませてから、右手を頬に伸ばす。
怖がらせないようにどこまでも優しく。
息を止めるように驚き固まっていた表情が次第に疑問と戸惑いへと変わり始めるものの、歩から嫌がる素振りは見えない。無言のまま春海の思惑を探るように向けていた目に、言葉代わりに微笑んでからゆっくり顔を寄せた。
「…………目、閉じて。
キス出来ないじゃない」
「!」
指一本の距離まで詰めても尚変わらない歩に苦笑しながら囁くと、はっとしたように瞼が下りる。緊張からか瞼と同じくらい固く閉じたその唇がいじらしく思えて、声を出さずに笑うと自分の唇を今度こそ重ねた。
「……」
「……」
僅かにそれでも確かな感触を唇に残して顔を離すと、無言のまま瞬きを繰り返す歩に微笑んで囁く。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
いつもより甘さを含んだ言葉と共に絡めた指をほどく。
ぱたりと閉じたドアの音と共に取り繕っていた余裕が一気に崩れた。
──なんだ、ちゃんとどきどきするじゃない
高揚する胸を自覚しながら、初めて交わしたキスを思い返して熱くなった頬を押さえる。明らかに今自分が緩みきった顔をしているに違いなくて、頬の熱が身体の芯に移ったかのように熱い。
──そういえば、唇かさついてなかったかしら
今日のリップを気にする余裕が出てきたところでようやく立ち上がると、ドアの向こうから鈍い音と共に呻き声が聞こえた。
「!?」
聞き覚えある声に裸足のままドアを開けた先で、こちらを見た歩が慌てたように身体を起こす。どうやら少し先に設置された消火器に躓いて転んだらしく、倒れた消火器を戻す片方の手はぶつけたらしい鼻を押さえている。
「歩、大丈夫!?
怪我は?」
「いえ! あ、はい!
そのっ、あのっ、本当に全然全く大丈夫ですから気にしないで下さい!! お、おやすみなさいっ」
片手で鼻を押さえたままぶんぶんと勢い良く手を振って無事をアピールすると、逃げるように階段を降りていく後ろ姿を唖然と見送った。
「……ふふ」
平然とした態度の裏で必死に動揺を隠していたらしい歩の姿に自然とこぼれた笑みはどこかむず痒くて、緩む頬を隠すように慌ててドアの中に逃げ込んだ。
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