第163話 変転(3)

「おやすみなさい」

「おやすみ。

 気をつけてね」


 原付のアクセルをゆっくりとふかしながら片手を上げると、応えるように春海が胸の前で手を振る。マンションの駐車場を左折した先の赤信号で後ろを振り向くと、黒い影が同じ場所に立っているのが見えた。


 あれからお互い何事も無かったかのように過ごしたものの、こうして一人になると先ほどの会話を思い出してしまう。


「……あぁ、やっちゃったなぁ」


 春海への気持ちを否定するつもりもなかったし、隠すつもりもなかった。ただ、こんな形で告げるとは思ってなかった。


 ──春海さん、すごく困ってたし


「引きました?」という質問はスルーされたものの、困惑した顔を見れば答えは明らかだろう。


 もう少し上手い言い回しがあったかもしれない。そう思う一方で、近すぎる距離と笑顔に釘を刺したかったのも事実だった。肘が触れた際の柔らかな肌を思い出して、思わず疼く胸を片手で押さえる。


「……私、告白した相手なんだけどな」


 自分が傍にいる理由を話の流れであのまま善意と押し通せば良かったのかもしれないが、何故か傷ついたような春海の表情につい本音をぶちまけてしまった。友人という立ち位置はこれからも崩さないつもりだが、全く意識されていなかったという事実にショックは隠せない。


 いくら悔やんでも告げてしまった言葉は取り消せず、運転中でなければその辺を転げ回りたいくらいの気分だ。


 それでも、春海から拒絶されなかったという事だけは唯一の救いといえる。



「春海さんが優しすぎるのがいけないんだ……」


 しばらくは距離を置いた方が良いのかもしれない。

 毎週会える楽しみが消えてしまう可能性にがっくりと肩を落としながら、見えてきた自宅にスピードを緩めた。




 ◇



「はぁ」


 スマホの画面を見つめて深々とため息をつく。

 先週の一件以降、歩がぱたりとメッセージを送ってこなくなった。表面上は笑顔で別れたものの、連絡してこないのはどう考えても告白に混乱した自分を気遣ってのことに違いなくて、そんな察しの良さが今は憎たらしくさえ思える。


「迷惑じゃないって言ったのに……馬鹿」


 今日は木曜日、週末の予定を決めるなら自分から連絡すれば良いだけの話なのだが、今まであれほど簡単に送っていたメッセージが何も思い浮かばない。次第に暗くなっていく画面を見つめながら、再びため息をつきそうになって、作業台に頭をぺたりとつける。



『歩に慰めとか同情なんてして欲しくなかった』



 歩が善意で傍にいてくれることは分かっていたはずなのに、気がつけばそう告げていた。


 ──まるであたしを好きでいて欲しいみたいじゃない


 それなのに歩から好意を告げられても素直に喜べない自分がいる。



 ──どうして


 心の中の疑問に先日の歩の声が答える。


『そもそも春海さんは異性愛者で私とは恋愛対象が違います。私が男性と付き合えなかったように、春海さんに無理はして欲しくないんです』


 ──そんな事は分かってる


 三年前にその最もな例を間近で見ていたのだし、歩の心遣いは自分を思ってのことだと百も承知だ。

 だけど、


『私は今の関係以上を望みませんし、春海さんに同じ気持ちを返して欲しいとは思ってません』


 あの時からもやもやと燻り続けていた感情が蘇り、苛立ち紛れに手放していたスマホをぐっと握りしめた。


「……どうして勝手に決めるのよ」


 歩は最初から自分を拒絶していた。

 好きでいてくれるのを当然と思う一方で、自分の気持ちは必要ないというその態度が無性に腹立たしい。




 自分は三年前とは違う。

 あの一件以降、他人事だった自分を恥じてLGBTQ、最近ではSOGIという言葉に置き換えられつつある様々な性的指向、性自認の形について学んだし、歩と同じように性に悩みを抱える人の存在も知っている。その一方で、同じ立場ながら画面越しでも幸せが伝わるような表情を浮かべる人たちの存在も知っているのだ。


 誰にでも幸せになる可能性があるのに、歩は決して手を伸ばそうとはしない。



「確かに一度は断ったけど、だからって………あれ?」


 無意識に結論づけようとする思考にブレーキが掛かる。がばりと頭を起こすと、自分の言葉が信じられなくてぱちぱちと瞬きを繰り返した。



「あたしは歩をどう思ってるんだろう?」

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