第162話 変転(2)

 その週は「たまには一緒に夕食でも」という話になった。夕方に買い出しの車を出した流れでそのまま春海のアパートに場所を移すと、買ってきた惣菜を並べる。歩が作ったサラダも追加され、二人分には多めの量となったもののあれこれと感想を言い合いながら食べていた料理は綺麗に無くなっていた。


「そろそろ片付けますね」


 話が切れたついたタイミングで歩が腰を上げると、皿を重ねていく。


「あたしも片付ける」

「春海さんには先週もお世話になったんで、座っててください。あ、キッチン借ります」


 後に続こうとする春海を手で制した歩が皿を持って立ち上がる。その手からコップと箸を奪い取ると春海も並んでキッチンに向かった。


「先週は歩の誕生祝いでしょう、主役をもてなすのは当たり前じゃない」

「それでも二週続けて春海さんのお家にお邪魔するのは申し訳ないです」

「どうして?」

「それは、掃除大変だったんじゃないかなと思って」

「あ~ゆ~む~!

 あんた言うようになったわね」

「あはは、ごめんなさい」

「ったく」


 笑って流した春海に安心したように歩が先に皿を洗い始める。その姿に対抗するように歩の横に立つと泡だらけの皿に手を伸ばした。


「二人ですれば早く終わるでしょう?

 お皿渡して」

「……お願いします」


 袖捲りしたお互いの腕が触れ、歩の声が少しだけ掠れる。手元の作業に集中するように歩が黙り、しばらく沈黙が続いた。


「あのさ」

「はい?」

「最近気づいたんだけど……

 あたしもしかして結構無理してた?」


「えっと、……はい、そうですね」

「……やっぱり」


 一足先に皿を洗い終わった歩の濡れたままの手を見て、掛けてあったタオルを差し出す。お礼と共に受け取ったタオルで水気を拭くその動作を見守りながら、小さく呟いた。


「あたしの事なんて放っておいても良かったのに」

「そんな事出来るわけありませんよ」


「歩は人が良すぎるわよ……」


「どうしました?」


 いつしか声を落とす春海に気づいたらしく、手を止めた歩が心配そうに見つめている。

 ぽたぽたと指先から落ちる滴がフローリングの床に染みを作り、それがまるで自分の心に負の感情が広がっていくような錯覚を覚える。


「あたしが落ち込んでたのは認める。

 だからって、歩に慰めとか同情なんてして欲しくなかった」

「え……何の話ですか?」

「今まで無理して付き合ってくれてたんでしょう。

 そういう気遣いなら要らない!」


 つい声を荒げた春海を歩が困惑したように見ている。気まずさ故に思わず視線を反らしたものの、歩も黙ったままで互いが互いの反応を探り合うように動きを止めている。


「……間違っていたらごめんなさい。

 春海さんは私が善意でここにいると言いたいんですか?」

「……」


 否定しなかったことで沈黙をイエスと捉えたのか、やがて困ったような声が聞こえてきた。


「春海さんこそ私を信用し過ぎです。

 もう少し警戒心を持ってください」

「……どういう意味よ」

「忘れましたか?

 私の恋愛対象は女性で、告白した相手はあなたなんですよ」

「……」


 顔を上げた春海にいつの間にか距離をぐっと詰めた歩がにこりと微笑む。


「私だって下心はあるんですよ?

 必死で諦めた好きな人が結婚せずにいるって聞いたら、会いたくなるに決まってるじゃないですか」


「え……だ、だって、自分の気持ちに区切りをつけたって言ってたじゃない!」

「ええ、確かにつけましたよ。

 だけどあなたを好きでいることを諦めたとは一言も言っていません」


 黙ったままの春海に「引きました?」と続けた歩がさりげなく元の位置に戻る。


「……どうして最初に話してくれなかったの?」

「気にしてもらいたくなかったからです」

「……」


 あっさりと自分への気持ちを告白した歩が何事もなかったかのようにタオルを取ると濡れた春海の両手を包むように拭きながら口を開いた。


「私は今の関係以上を望みませんし、春海さんに同じ気持ちを返して欲しいとは思ってません。

 だから、伝えなかっただけです」


 あまりにも理不尽な理屈なのに、笑顔で告げる歩を信じられない気持ちで見つめる。そんな春海に笑いかけ、歩がタオルをハンガーに戻した。


「私はもう二度と会えないと覚悟していたあなたとこうして過ごせるだけで十分ですから。

 それに、そもそも春海さんは異性愛者で私とは恋愛対象が違います。私が男性と付き合えなかったように、春海さんに無理はして欲しくないんです」

「……」


「少し余計な事を言い過ぎましたね。

 忘れてください」


 話は終わりとばかりにポケットからハンカチを出して屈もうとする歩を制すると、テーブルからティッシュを持ってきて濡れた床を拭く。ごみ箱から戻った視線を真っ直ぐ受けて歩が続けた。


「その……春海さんが迷惑じゃなかったら、これからも一緒にいて良いですか?」


「あたしは迷惑なんて一度も思ってない」


 纏まらない思考の中でどこか不安げな質問をそれでもきっぱり否定すると、歩がくすぐったそうに笑った。怪訝な視線の春海に気づいたらしく、歩が笑みの残る目を一層細める。


「ごめんなさい。

 私が春海さんを好きだっていうことには何も言わないんですね」

「!

 それは……誰だって他人に好かれる方が嬉しいに決まってるでしょう」

「そうなんですけどね。

 そういうところが、いかにも春海さんらしいなぁって思ったんです」


 自分では気づかなかった指摘にあえて意味をすり替えて反論すると、歩がそれすらも見透かしたように笑みを浮かべた。

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