第161話 変転(1)

 改めて歩と約束を交わしてから、二ヶ月以上が経った。土日も仕事のある歩の都合を優先して最初は月に一度か二度ほどの頻度で会っていたものの、しばらくして「シフトを変えてもらったので」と歩が申し出てからは、土曜の午後をほぼ毎週のように二人で過ごすようになった。


 あらかじめ会うことを決めていた訳ではなかったし、都合の悪い時はその場であっさり話は終わるものの、次の週末近くになればどちらかともなく連絡を取る。お茶をしたり、映画を観たり、部屋で過ごす事が中心の時間はそれでも他愛もない会話と笑い声が途絶えない。


 歩が無理して付き合うことのないようにと初めは慎重に誘っていたものの、明るく嬉しそうな表情を見るたびに、その心配もやがて杞憂かもしれないと思い始めていた。




 そんな週末を送るようになった月曜日の朝、いつものように鏡に向き合っていた春海の手がふと止まる。


「……?」


 身体が軽い気がする。

 そういえば、あれほどベッドから離れるのが辛かったのに最近はすんなりと起きれているし、仕事の疲れも翌日に持ち越さなくなっているのかメイクに掛ける時間もずっと短い。思い当たる原因を探るも心当たりはなく、寒い冬が終わろうとしているからかもしれないと結論付けて職場に向かった。





「おはようございます」


 周りを民家で囲まれた一角にある倉庫のような建物のドアを開いて中に入ると、空調の効いた室内にインクや紙の匂いが混じった独特の空気が広がっている。すっかり嗅ぎ慣れたそれらと見渡す限り並んだ本棚の間を奥に進むと、二つ並んだ大きな作業台でペンを動かしていた白髪頭の男性が春海に気づいたように顔を上げた。


「おはようございます、悟さん」

「おはよう。

 ちょっと待っててな、これを書き終わるから」


「ええと」と唸りながら再びペンを走らせた男性の横をすり抜け、作業台の一角に設置されたタブレットに電源を入れる。メールをチェックしてから電話の上にある幾枚かの注文書を手に取った。


「これも頼むよ」

「分かりました」


 受け取ったメモ用紙を確認して目の前のホワイトボードに貼ると、再び手元の紙をチェックする。


 春海の仕事は悟が経営する『寺田文豪堂』の事務だ。文豪堂は書店だが一般的な書店とは違い、文学書や資料集、歴史書や郷土史を専門とした店で店舗自体は構えてはいるものの販売は全てメールかファックスでしか扱わない。あまりにも間口の狭い販売方法に驚いてその理由を訊ねると「お客に本を読む時間を取られたくないから」という答えが返ってきて唖然とした。


 そんな一風変わった経営者の下で働く春海の仕事は、悟から受け取った注文票の本を倉庫内の本棚から探して発送するというもの。不思議にもそれなりに需要があるらしく細々と来る注文のお陰で暇というほど退屈ではないが、忙しいというほどでもない。一人きりの職場での行動に制限はないし、あらかじめ申告すれば平日の休みも自由に取れる。


 雇われている身からしてもこれ程待遇の良い仕事内容に何か裏があるのでは初めは疑いの目を向けていたが、「利益よりも趣味の延長」という悟自身の気楽な態度と何より勇三の叔父という肩書きに納得して、気がつけば「よろしくお願いします」と頭を下げていた。


「春海さんが来てくれたお陰で発送が早いって好評なんだ。本当助かるよ」

「ありがとうございます……」


 発送作業すら雑務と言って億劫がっていた悟に内心苦笑いしつつ頭を下げる。いつものように脇に売り物の本を数冊抱えていそいそと倉庫の奥の私室に向かおうとしていた悟が「そういえば」と足を止めた。


「最近雰囲気が明るくなったね」

「……私、暗かったですか?」

 

 思いがけない指摘に目を丸くして問い返すと「暗いというよりはどこか無理しているような感じだったかな」と悟が手を顎に当てながら答える。


「心境の変化は良い方に越したことはないからね」


 そう言い残して立ち去った悟を見送った後、しばし呆然とその言葉を反芻する。


「心境の変化……」


 自分の変化は気候のせいではないのかもしれない。

 そう言われてみれば最近週末を楽しみに毎日を送っているし、歩から何かともらう差し入れのお陰で食事を取る回数も増えている。心と身体の両面が満たされているからこそ良い変化として表れたのではないか。


 そこまで考えて思考が止まる。


 毎日挨拶程度に顔を合わせているだけの悟でさえ自分の変化に気がついたのだ。自分をいつも気にかけてくれている歩が何も言わないはずがない。いや、言わないのではなく、そうなるように仕向けていたとしたら?


「もしかして……」


 全く気づかなかった歩の真意にようやく触れた気がして、思わず椅子から立ち上がった。

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