第160話 再会(7)
正午を知らせる時報がラジオから聞こえて、手元の作業を終わらせようと少しだけ急ぐ。育苗用の小さな鉢に土を入れる作業を完成させたところで立ち上がろうと足に力を入れた。
「っと」
しゃがんだままの姿勢を長時間続けていたからか視界が軽く歪む。立ちくらみを起こしそうになった強ばった筋肉を意識してぐぐぐと伸ばすと、身体のありとあらゆる場所から悲鳴が聞こえるようだ。
ビニールハウスの入り口に設けられた簡易休憩所に早足で行くと、急須と湯飲みを取り出してお茶の支度を始める。湯飲みにお茶を注いだタイミングで、ハウスの外から軽トラのドアが閉まる音が聞こえた。
「外、寒ぃわ」
「今日は風が強いですね。
木ノ下さん、お茶をどうぞ」
背中を丸めてハウスに入ってきた初老の男性の前に湯飲みを置きながら同意する。湯飲みの熱で手を温めていた木ノ下が先程まで歩の居た場所を一瞥してから口を開いた。
「あれ、幾つ出来た?」
「120はあると思います。
あとどのくらい作れば良いですか?」
「ま、そのくらいで良い。
鉢の土が乾燥しないようにシート被せとけ」
「はい」
話は終わったとばかりに弁当を取り出した木ノ下に倣い歩も昼食を取り出すものの、ハウスの奥から歩いてくるもう一人の姿を見かけて食べようとしていたパンを袋に戻した。
「えぇ、今日は三人やったのう」
「はい、東さんが休みなんで。
松山さん、お茶をどうぞ」
「おお」
「どっこらせ」と声を上げながらようやく椅子に座った老人の前に湯飲みを置いて、歩も再び座り直した。
「いただきます」
小さく手を合わせて袋の中のパンを取り出す。普段はお弁当を準備するのだが、今日は時間も材料もなくてコンビニで調達してきたロールパンだ。
農園主が寡黙なこともあって黙々と食べるだけの時間に普段から殆ど会話はない。パンを口に運びながらも、静かに眠っていた昨夜の春海の姿に思いを馳せる。
──春海さん、起きたかな?
さすがに昼を過ぎても寝ていることはないだろうと思うものの、もしかしたら連絡が来ているかもしれない。今すぐスマホを確認したい衝動に駆られるも、いつもの癖でバックに入れっぱなしだったことを思い出してパンを口に押し込んだ。
「ごちそうさまでした」
そそくさと残ったパンの袋を持って立ち上がると、急ぎ足でバックからスマホを取り出す。滅多に表示されないメッセージ受信のランプがチカチカと光っているのが見えて一気に胸が高鳴った。この場で見ても誰も気にしないだろうが、逸る心を落ち着かせるようハウスの外に出る。
「え」
春海からのメッセージには謝罪とお礼に加え、鍵を直接渡しにいくので仕事が終わったら連絡して欲しいという内容が綴られていた。
「余計な手間を掛けちゃったかな……」
鍵をポストに入れておくのは無用心だったかと二度手間を申し訳なく思う一方で、これ程直ぐに会えると思えなかった嬉しさで口元が緩む。
普段から残業は殆どないものの、春海に会えるなら早く会いたい。いそいそとメッセージを送り返すと直ぐに既読がついてスタンプが送られてくる。
「ふふ」
嬉しさを隠すようにスマホを胸に押し付けて小さく笑うと殆ど眠れなかった昨夜の疲れも吹き飛んだ気がして、寒さも感じないまま足取りも軽くハウスに戻っていった。
◇
原付のエンジンを切る前に隣に停まっていた車の運転席から春海が出てくる。
「お疲れ様」
「いいえ。
わざわざ待っていてくれたんですね」
「ううん、迷惑掛けたのはあたしだから。
夕べは本当にごめん!」
頭を下げる春海に「気にしないで」と言おうとして咄嗟に言葉を飲み込んだ。
「春海さん、疲れていたみたいですけどよく眠れました?」
「え、うん……」
「それなら布団を譲った甲斐がありました」
「ぐっすり寝てたんで、わざと起こさなかったんです」と笑って続けると目を丸くした春海が恥ずかしそうに微笑む。
「……ありがと」
「いいえ」
「あ、先に鍵を返しておくわね」
会話の止まった気まずさを隠すようにあたふたと春海が差し出してきた鍵を受け取る瞬間、春海の指先が手の平に触れどきりと鼓動が跳ねた。
「ありがとうございます」
あっさりと終わった用件に何とか春海を引き留める理由を探して頭の中の引き出しをかき回していると、ちらちらと自分を見つめる春海に気づいた。
「あの、さ」
「え、はい?」
「朝ご飯も作ってくれたのよね。
あたし久しぶりに歩のご飯食べれて嬉しかったし、凄く美味しかった」
「あー、そんなに喜ばれるような内容じゃないですから。材料があればもう少し色々作れたんですけど」
買い出し前の冷蔵庫の中にがっかりしながら作ったあり合わせのメニューを思い出して恐縮すると、春海が笑って首を横に振る。
「それで、今度歩の都合の良い時で構わないから一緒にご飯食べない?
迷惑掛けたお礼も兼ねてあたしが奢るからさ」
「……えっと、」
「あ、無理なら遠慮なく断ってくれて良いから」
思わず口ごもった歩を見て、拒否されたと思ったのか春海が慌てて言葉を続ける。
「いえ、無理とかじゃなくて凄く嬉しいです。
私も春海さんと一緒に過ごせて楽しかったし」
「本当!?
社交辞令とかじゃない?」
やけに念を入れてくる春海を不思議に思いながらも頷くと、どこかほっとしたような顔になる。
「ただ、その……奢りとかはして欲しくないです」
「?
あたしは全然構わないのよ?」
正直金銭的にそれほど余裕があるわけではないし、奢ってもらえるならありがたいという気持ちもある。しかし、自分はもう社会人でかつてのように春海に甘やかしてもらうだけの存在ではないから。
それでなくとも無意識に子供扱いしようとする春海に九才という年齢差を思いしらされたのだ。頼ってもらおうだなんて考えは早々と改めざるを得なかった。
それならせめて
──春海さんの隣に並びたい
「その方がちゃんと楽しめますから」
ずっと前から変わらない気持ちの代わりに、そう続けた歩に一瞬驚いたような春海がやがて笑って頷いた。
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