第159話 再会(6)
「……春海さん?」
テーブルに突っ伏したまま急に静かになった春海に気づいた歩が呼び掛けるも、返事はない。
「は、春海さん!
寝ちゃ駄目です!」
何度も名前を呼ぶも一向に目を開ける気配はない春海の姿に焦りながら、隣に移動してその肩に恐る恐る手を添える。
「……春海さん、起きて下さい」
「ぅ……ん」
まるで本当は起きてほしくないかのように耳元で呼び掛けた囁き声に小さく反応があったものの、余程疲れていたのか直ぐに静かな呼吸音が聞こえてくる。
「…………本当に眠ってる」
困惑混じりの声と肩に置いたままの手が宙をさ迷い、やがて名残惜しそうに離れる。煩悩を振り払うかのように二、三度軽く頭を振った歩がしばらくして立ち上がった。
◇
「…………」
薄暗い部屋と知らない香りのする布団──状況が掴めずにそれでも声を上げなかったのは、夢うつつながら「起きて下さい」という歩の声が耳に残っていたから。一組しかない布団はどうやら自分に譲ってくれていたらしく、毛布と布団をどかして身体を起こすと頭を抱え込んだ。
──やってしまった
いくら仕事で疲れていたとはいえ、更に久しぶりに酒を飲んだからといって、他人の家で寝落ちするなんて気を緩めすぎだろう。歩と交わした会話は最後まで覚えているものの、目が覚めたときの焦燥感は半端ではなかった。
時計を見れば、月曜の朝とは思えない時間になっている。落とさなかったファンデがシーツを汚さなかったか慌ててチェックした後、シャワーすら浴びずに寝てしまった自分に気づき、恥ずかしさばかりが上乗せされていく。
「……やっぱり今後一切お酒は飲まないでおこう」
失態の全てを三年ぶりの酒のせいにして再びの禁酒を固く誓うと、テーブルに置かれているメモに気がついた。
『おはようございます。
仕事が早いので先に出ました。
家にあるものは自由に使って構いません。簡単ですけどキッチンに朝食を置いてあるので、良かったら食べてくださいね』
何かの拍子に『明日は休み』と話していたのを覚えていたのだろう、丁寧に書かれたメモを三度読み返した後、手帳を取り出して間に挟む。
「布団も譲ってくれた上に朝食まで作ってくれているなんて、土下座レベルだわ」
ふらふらと引き寄せられるようにキッチンに行くと、メモの通り小さなキッチン台の上にお握りが二つ、少し大きめの卵焼きと小皿にピクルスが添えられ、それぞれラップに包まれている。普段朝食は摂らないものの、歩の心遣いを無駄にしたくなくてトレイを持つとテーブルに移動した。
「……いただきます」
皿を並べて両手を合わせ、卵焼きに箸を伸ばす。
「美味しい」
かつて歩にリクエストしたことを覚えていたのだろう。もうあの頃好きだった卵焼きの味は覚えていない。それでも久しぶりの手料理と早起きしてわざわざ作ってくれた歩の姿を想像しただけで、心がじんわりと温かくなる。
気がつくとあっという間に食べ終えていて、自分が空腹だった事に気がついた。
布団を畳み、皿を洗って部屋を入念にチェックした後、手元に残った鍵を見る。鍵の返却はポストに入れておくようメモに書いてあったものの、そのポストを前に何故か手が動かない。
『自分の気持ちに区切りをつけた』
穏やかながらきっぱりと告げた歩を思い出す。
言葉通りなら歩が泊めてくれたのは完全なる善意に違いなく、今回は困りに困っての事態だったに違いない。
そもそも歩を遠ざけたのは自分なのだ。さっさと謝罪とお礼を告げてこれからは遠すぎず近すぎない関係を続けるべきだし、それが一番だということは理解している。
──それでも
このまま終わりにしたくないと拒む自分がいる。
夕べの事は直接謝りたいし、朝食のお礼も言いたい。
そして、赦されるならもう少しだけ同じ時間を過ごして欲しい。善意に甘えて再び関わりを持とうだなんてあまりにも身勝手で非常識過ぎると分かっていても。
どんな自分も受け入れてくれる歩の優しさは全てを失った心に明らかな安らぎをもたらしてくれた。
そんな優しさを再び失うことが今は辛い。
この気持ちを告げれば、笑顔で頷いてくれるのだろう歩をいとも簡単に想像できて、途端に苦々しい気分になる。
「……あたし、やっぱり駄目だなぁ」
自己嫌悪で満ちた声が、誰もいない空間に静かに溶けていった。
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