第158話 再会(5)
先程のやり取りのお陰か雰囲気がどこか緩やかなものに変わる。いや、そう感じているのは自分だけかもしれないと内心思いながら、態度の変わらない歩を前に手元の缶を弄る。
このタイミングで打ち明ける事に躊躇いはあるものの、ここまで来たのならいっそ全てを話して楽になりたいと心の奥が叫んでいた。
「歩、もう一つ聞いてもらって良い?」
「何でしょう?」
「あたし、結婚しなかった」
「……そうなんですね」
さりげなくを意識して告げた言葉に、何かを迷ったような間があった。
「もしかして……知ってた?」
「はい……」
申し訳なさそうな態度に強ばっていた肩の力が抜けると同時に思い当たりそうな人物を頭の中で検索する。
「花江さんから聞いたの?」
「え?
花ちゃん、知ってるんですか?」
「!」
驚いた歩からの予想外の質問に、今度は春海が目を丸くする。よくよく考えれば自分の左手に指輪はつけていなかったし、イベント会場では「鳥居さん」と呼ばれていた。歩からしてみれば幾らでも推測出来たであろう事実に気がついて落ち着きを取り戻す。
そもそも花江とはあれから連絡すらとっていないのだ。かつての友人すら真っ先に疑ってしまう自分がつくづく嫌になる。
「……ごめん。
花江さんは知らないと思う」
自己嫌悪に押し潰されそうな声に「私こそ黙っていてごめんなさい」と歩が重ねる。
「実は先月、所長さんに会ったんです」
「所長さん……って勇三さんよね?
どこで?」
歩から思いがけない人物の名前が出てきたことに驚くと、前のめりになりそうな自分に気づいて座り直した。
「おおかみ町にいたとき私を孫のように可愛がってくれたおばあちゃんが先月亡くなりまして、そのお通夜に行った際お会いしたんです」
「もしかして、歩がお小遣いを貰っていた人?」
「あれ?
春海さん、ミネさんと面識ありました?」
「直接は無いけど、いつだったかそんな話をした気がする」
「そうですか。ミネさん、桑畑さんとも親しかったですしね。
話が逸れましたけど、その時春海さんの近況を聞いたんです」
「そう……」
おおかみ町を離れても途切れない縁を大切にしている歩の言葉を聞きながら、あっさりと切れたままの自分をつい比べてしまいそうになる。そんな思考を無理矢理断ち切ると、多くを訊ねてこなかった歩の態度に納得して目を閉じた。
「私が原因ですか?」
「?」
「春海さんが結婚しなかったのは、私が原因ですか?」
「……違うわよ」
不意に聞こえてきた質問の意味が分からずに顔を上げると自分を真っ直ぐに見つめる視線とぶつかる。否定したにも関わらず春海を見る表情は嘘や偽りを見逃さないと言わんばかりにどこまでも真剣で、そんな歩に力なく笑うと「やっぱり一本貰っていい?」とアルコール缶を指差した。
最早過去の事として受け入れたはずの事実を口に出すのは、思った以上に勇気が必要らしい。ストロング缶とおぼしきラベルをろくに確認しないまま勢いよく喉に流し込むと、半分程になったところでテーブルに戻す。
「結婚しなかったのは彼との生活が上手くいかなかったから。ただそれだけよ」
「そんな単純な理由じゃないでしょう」
春海の言葉に眉を寄せた歩が思わずといったように反論した。そんな歩に小さく笑って、重い唇を滑らかにするよう缶に再び口をつける。
「本当に単純な理由なのよ。
彼との同棲がプレッシャーになったの」
「プレッシャー、ですか?」
不思議そうに訊ね返す歩を一瞬だけ恨めしく思う。きっと歩にとっては信じられない理由だろうから。
「そ。すごく情けないんだけどさ、あたし仕事辞めてたから必然的に家事をしなくちゃいけなくてね。
だから、毎日必死だった。それなのに彼は全然気にしてなくて、それが当たり前みたいな感じで」
「それは……彼氏さんに問題があるような気がします」
歩の低い声が話を遮った。家事が苦手なことを知っている歩ならそう言うだろうと思っていただけに思わず笑うと、重かった心が少しだけ軽くなったような気がした。
「ううん、そもそも、あたしが家事が苦手ってことを彼に隠してたのがいけなかったのよ。
それに、彼は彼で転勤したばかりの職場に慣れるのに必死だったろうし、休日はあたしに構わなくちゃいけない。
今なら彼も余裕が無かったんだろうって思えるけどね」
「……」
「それでも頑張ってやってるのを気づいてもらえない毎日にちょっとした不満が溜まっていって、そのくせ彼の都合ばかり考えて愚痴も弱音も言えなくて……こんな自分が嫌で嫌で仕方なくて。
頑張ろう、やり直そうって何度も努力はしたんだけど、もう限界だったの」
「……」
「まあ、他にも色々あったんだけど、もう忘れちゃったわ。だけど、歩のせいじゃないのは分かったでしょう?」
苦い過去を飲み込むように再び缶を傾けるも、いつの間にか空けていたらしく思わず顔をしかめる。二本目に手を伸ばしかけるも、結局空いた缶に手を戻した。
「……ねぇ、歩」
「はい」
「あたし……どこかで間違ったのかなぁ」
「……」
「好きだった仕事も、好きだった人も、あっさりなくなった。
あんなに自分の一生をかけても良いと思っていたのに、今はそれが本当に好きだったのかさえ分からないの」
「……」
歩に訊ねるのはお門違いだと理解しているものの、ずっと誰かに打ち明けたかった本音の許容量は限界だったのかもしれない。
「今なんて毎日適当に働いてるだけだし、休みの日にはゴロゴロして、ただ一日を過ごしてるだけ。部屋だって散らかったままだし、料理もやっぱりしない。
結局あたしは反省しても何一つ変わってない、変えられない、駄目な女なのよ」
「そんなことありませんよ」
思わずテーブルに突っ伏した春海の上から優しい否定が届く。
──そっか
ずっと不思議だった。
どうして9才も年の離れた歩と気が合うのか。
──歩はあたしを否定しないからだ
どんなときも、何があっても。
何故か聞き覚えある言葉に過去を回想し、確か歩に告げた言葉だったと思い出した途端苦笑いする。
ずっと支えてきたと思っていた存在は失ってみて初めて支えられてきたのだと思い知った。おおかみ町で一人になった一年間、圭人と暮らした一年間、そして一人で過ごした一年間、つつがなく送れていると思った日々は常に気を張っていたのかもしれない。現に歩と会ってこうして話しているだけで、心の澱が少しずつ流れていくように思えるのだから。
今となればその優しさは歩からの好意によるものだと分かってはいるものの、『けじめをつけた』後も自分をこうして受け入れてくれる。
その気持ちが嬉しい一方で酷く申し訳ない。
──あたしは何も返せなかったのになぁ
「そんなことあるわよ。
……現に今日だって歩の幸せが悔しくて、妬ましくて、無理矢理押し掛けたんだから」
せめてもの償いとして正直に胸の内を告白すると、最後の方は小声になってしまったものの確かに歩の耳には届いたらしく、やがてくすくすと笑い声が聞こえてきた。
「……何よ」
「ごめんなさい。
なんでもありません」
恥ずかしさのあまり咄嗟に視線だけ上げて睨み付けたものの謝罪の言葉を口にした歩の表情は笑顔のままで、作っていた表情を緩める。
「あ~あ、あたし歩に駄目なところばかり見せてる気がする」
「良いじゃないですか」
「全然良くないわよ。あたし歩より9才も年上なのよ」
「私は気にしませんよ」
「あたしは気にする」
「ふふっ、分かりました。
もう終わりにしましょう」
歩に軽くあしらわれている事実がやけにおかしくて声を出さずに笑うと、いつしかくらくらする頭と腹の底から沸き上がる熱を感じて、アルコールが身体を廻った事に思い至った。もはや頭を起こすことさえ億劫になり、鈍った思考の中でただぼんやりと目の前の歩を眺めていると、何かを思いついたように歩の表情が変わる。
「さっきの話、残念ながら私は答えを持ち合わせていませんけど」
そう前置きした歩の表情は三年前と何も変わらない、愛しいものを見るかのように優しくて
「私は、春海さんと過ごした日々を後悔したことは一度だってありませんよ」
「……」
何の変哲もないその言葉に何故かじわりと視界が滲んだのはきっとアルコールのせいに違いないと、顔を隠すように腕の中に埋めた。
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ミネさんとのやり取りは第68話にありますが、二人の記憶をあやふやにすることで三年という時間を感じてもらえるよう、あえて間違った認識にしています。
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