第157話 再会(4)

 二足並べただけで埋まる三和土に靴を揃え二畳ほどのキッチンを抜けると、奥は畳張りの室内だった。


 中央に置かれた小さなテーブルと壁に二つ並んだカラーボックス、隅に寄せてある布団。それだけでも室内の半分を占めており、独り暮らしをするのに最低限のスペースしかない空間。


「あの……?」

「あ、ええと、全然散らかってないじゃない。

 あたしの部屋なんて本当に見せれるものじゃないから」


 あまりにも殺風景で、ただ生活する為だけの部屋に言葉を失いそうになりながら、慌てて笑みを作る。


「いえ、その、服とか脱ぎっぱなしなんで……少しだけ片づけて良いですか?」

「ええ。

 それじゃ、キッチンの方にいるわね」


 返事を待たずにキッチンに戻ると、部屋から背中を向ける。ぱたぱたと動き回る足音を背後に聞きながら、後悔の詰まった息を深々と吐き出した。


 ──何やってるんだろ


 あのまま別れても問題なかったはずだ。

 歩から声を掛けてきたということは今後連絡を取っても構わないという意思表示だろうし、会うなら日にちを改めてからでも良かっただろう。それなのに明日は朝から仕事だという歩の都合も考えずに押し掛けて、現状を知って勝手に打ちのめされる。


 僅かに燻っていた好奇心も否定出来ない。

 だけど、それよりも、自分を突き動かしたのはきっと……


 ──あたし、歩が幸せなのか知りたかったんだ


 自分の現状が惨めだとは思いたくない。

 だけど、明らかな変化を遂げた歩に何故か負けた気がして、無性にそれが悔しくて。



「……ほんと馬鹿だ」


 猛烈な罪悪感に押し潰されるように呟きが漏れる。



 例え過酷な環境でも常に気持ちが上向きであること、その積み重ねが今の歩を作っていて、それは彼女自身の努力の結果に違いない。お金持ちが本当に幸せかという問いかけへの答えのように、幸せなどというものは結局本人の気の持ちようなのだ。


 真っ直ぐで純粋な歩なら当然のことはずなのに。


 そんな当たり前の事すら思い至らず、醜い嫉妬すら感じてしまった自分に反吐が出る。


「──さん、春海さん」

「!?」


 名前を呼ばれていることに気づいて顔を上げると、歩がすぐ隣に立っていた。


「大丈夫ですか?

 疲れてるなら無理しなくても」

「あ、うん。全然大丈夫!

 折角歩とお酒を飲むんだから、いっそのことノンアルじゃなくて、アルコール缶にすれば良かったなぁって考えてたの」

「でも、帰りが……」

「帰りは代行を呼べば良いだけだし」


 自分を見つめる歩を説き伏せるようにレジ袋を掲げて笑うと、心配そうな表情が一瞬迷うように揺れる。


「……その、もし、春海さんが良ければありますけど」

「何が?」

「ノンアルじゃない方」

「へ?」


 驚きに固まった春海から一歩離れた歩が小さな冷蔵庫のドアを開ける。ことりことりとキッチン台に置かれたのは『これはお酒です』とラベルされた紛れもないアルコール缶。


「……どうしてこんなの持ってるの?」

「たまにですけど飲みますから」

「え?

 だって、歩は」


 未成年でしょう、と続けそうになって気がついた。


「もう成人したんだったわね」


 過去と現在があやふやに重なるせいで、成人しているという事実に改めてたどり着いた春海に歩がくすりと笑う。


「さっき一緒に買いに行ったじゃないですか」

「そうなんだけど、大人になった歩っていまいちピンとこなくて……ねぇ、背も伸びた?」


 横に並んだ歩と肩を並べる様に立つと、何故か歩がそっと視線を逸らす。


「流石に身長は伸びてないと思います……」

「そう?

 歩ってこんなに高かったかしら」

「多分、変わってませんよ。

 とりあえず、座ってください」


 歩に促されてテーブルの前に腰を下ろすと、レジ袋から買ってきた缶を取り出した。


「歩はどっちにする?」

「私はこっちをもらいます」

「あたしに気を使わなくて良いのよ」

「いえ。

 折角春海さんと選んだので」

「……」


 ノンアルの缶を選んだ歩のにこにことした表情にどう返して良いか分からないまま同じ缶を手にする。


「それじゃ、乾杯」

「乾杯」


 缶と缶を軽く合わせ、ぐいと傾ける歩を眺めつつ自分の缶に口をつける。甘さもアルコールもない液体を流し込む仕草は手慣れたもので、日頃から嗜んでいる様子がうかがえた。


「歩ってお酒強いの?」

「そうですね。

 あまり酔わないんで、多分強い方かもしれませんね」

「そっか……何だか意外」

「花ちゃんもお酒強いんで、似てるんだと思います」

「ふーん」




「あのさ」

「はい」


 緊張する自分を落ち着かせようとごくりと飲み込んだぶどう味の液体はほろ苦いだけで少しも美味しくない。だからこそ、この味がこれから懺悔しようとする自分には相応しいように思えて、ようやく続きを口にした。


「あたし……歩に謝りたかったの」

「?

 何をですか?」


 ずっと心に秘めておくつもりだった思いは歩の顔を見た途端、古ぼけた綻びが広がるようにぼろぼろとこぼれていく。


「歩の気持ちを知ってたのに黙ってたこと。その上、あんなひどい言い方をしたこと。

 …………ずっとずっと後悔してた。

だから、本当に」

「やだなぁ、もうやめてくださいよ」


「ごめん」と続けようとする春海を両手を突きだした歩が遮った。


「むしろ謝るのは私の方ですから。

 彼氏がいる春海さんを勝手に好きになって、告白までしたんですよ? 普通なら拒否されて当然です」

「……」


 言葉を返さない春海に何かを感じたのか、歩が僅かに眉を下げた。


「私のことが心の重荷になってたのなら謝ります」

「違う。

 そうじゃないの」


 謝罪の言葉を聞きたくなくて反射的に否定するも、歩の表情は変わらない。


「……あたしのこと恨んだりとかしなかったの?」

「え?」


 心外だと言わんばかりの表情をされて言葉に詰まり、思わず手元の缶に視線を落とした。


「私は感謝してるんですよ。

 春海さんはあの時私を恋愛対象としてみれないって言いましたけど、それは同性だから、彼氏がいるからという理由ではなく、あくまで一人の人間として私の気持ちに答えてくれたものでした。

 あなたは私の気持ちを拒絶しましたが、私自身を否定はしなかった。だからこそ、私は自分の気持ちに区切りをつけれたし、こうして今、あなたと向き合えるんです」

「……」

「だから、春海さんが悩む必要なんてなかったんです」

「……」


 春海に聞こえてくる声はどこまでも穏やかで、そこに負の感情は感じられない。ようやく顔を上げた春海に歩が優しく微笑んだ。



「もう三年も前のことです。

 忘れてください」

「!

 ……歩はそれで良いの?」

「はい」


「私だけが覚えていれば十分ですから」と茶目っ気混じりの表情で続けた言葉に目を丸くする。


「歩……やっぱり大人になったわよ」

「それはそうですよ。

 私、大人ですから」


 これ以上の気遣いをさせないとばかりのその態度を思わず指摘すると、当然とばかりの顔が返ってきた。




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