第152話 嵐の襲来(7)

 その姿が見えたのは本当に一瞬だった。真っ暗な川辺を動く黒い影が何をしようとしているのか理解した途端、全身が凍りつく。


「歩っ!!!」


 橋の袂から呼び掛けた声は確かに届いたはずなのに、黒い影は真っ直ぐに川へと進んでいく。その様子に焦りつつ、川に下りれる場所を探しながら急いでスマホのボタンを押す。

 

「花江さんっ!

 運動公園に向かう橋の下にいる!

 早くっ!」


 悲鳴に近い声で一方的に通話を終えると、歩の後を追った。


「歩っ! 歩!!」


 声を掛ければ掛けるほど影は川の中央に向かっていく。それでも呼び続けなければその姿を見失いそうな気がして、掠れた声を張り上げながら階段を駆け下りる。


 数日前に雨が降ったとはいえ、元々川底が浅かったらしく、奥まで行っても膝上までしかない水位に気づいた歩が川下に方向を変えた。


「歩!! 駄目っ!!」


 水に足を踏み入れた途端、刺すような冷たさに飛び上がりそうになるものの、躊躇うことなく二歩目を踏み出していく。膝上までとはいえ、徐々に深くなる水の中ではその流れも強く、真っ暗な視界も相まって何度も足をとられてしまいそうになる。


「っ歩!!」


 春海が近づいたことに焦ったのか、足を滑らせて転倒した歩にようやく追いつくと、立ち上がろうとするその身体を強く引いた。


「歩、お願い!! 止めて!!」


 抵抗するように身体を捩った歩がバランスを崩し、二人とも水の中に倒れこむ。


「!」


 一瞬にして見えなくなる視界、耳元で聞こえるごぼごぼという水音、背中に感じる突き刺さるような冷たさ、川底の石に当たったらしい腕への強烈な痛み──顔まで水に浸かりながらも掴んだその手だけは離さずに、必死に身体を起こす。


「げほっ、げほっ、ごほっ」


 転んだ拍子に水を飲んだらしい歩が咳き込みながら、それでもよろよろと逃れようとする。その姿を見た途端、自分の中の何かに火がついた様に歩に掴みかかっていた。



「知ってたわよっ!!」

「っ!?」



「あんたが同性しか好きになれない事も、ついでに言うなら、あんたがあたしを好きだって事も知ってた!」

「!!」



 お互いの鼻と鼻とが触れそうな距離で、肩で息をする春海の言葉の意味を理解したらしい歩の目がこれ以上にないくらい丸く見開いた。


「…………う、そ」

「嘘じゃない!」


 がくりと力の抜ける身体が倒れこむのを許さないとばかりにそのまま引き立たせる。


「ねぇ、歩。

 あんたが同性愛者だからってあたしが態度を変えた? 軽蔑したり、距離を置くように見えた?」

「……」


「目を反らすな!」と言われ、呆然とした歩が僅かに視線を上げる。


「あたしにとってあんたが同性愛者なのはそれくらい些細な事なのよ。

 良い? もう一度言うわよ。

 あんたの大切な秘密なんて、あたしにとってはどうでもいいことなの!!」


 服を掴む手も、水に浸かっている下半身も既に感覚がない。それでも今この場で言わなければ、きっと一生後悔する予感があった。


「そんな理由で死んでみなさいよ……あたしは一生あんたと自分を恨むから……毎月、毎年、何か行事がある毎にあんたを思い出して……その度にあたしはあたしの大切な人を失くした事を後悔する………何年経っても、どれだけ過ぎても…………あたしは死ぬまでずっとずっと後悔するんだから!

 あんたのせいで、あたしは不幸になるのよ!

 絶対幸せになんてならないんだから!」

「……」


 吹き付ける風がぐっしょりと濡れた身体から容赦なく体温を奪う。凍える寒さの中、力を振り絞って歩を真っ直ぐに見つめた。


「だから、そんな下らない、馬鹿馬鹿しい、ちっぽけな理由で、死のうとなんかするな!!

 あんたは今、死んで良い人間なんかじゃない!!

 あたしの大切な人を奪うなんて、そんなこと許さない!

 あたしは絶対許さないんだからっ!!」




 雲に覆われた月が顔を覗かせたらしい。月明かりが川面に光を注ぎ、歩の髪から滴り落ちる水滴がきらきらと光っている。




「……………わ、わた、し………………どう、すれ、………」


 独り言に近い呟きに襟元を掴んでいた手をゆっくり離すと、流れる水の中に沈んでいた歩の手を引き上げた。


「歩は生きるの。

 例え、どんなに辛くても、悲しい事があっても、逃げ出したくなっても、絶対に生きることを諦めちゃいけないの」


 冷たい凍ったその手に自分の手を重ねてしっかりと歩を見つめる。


「歩、辛いときはあたしを恨みなさい。

 悲しいときはあたしを憎みなさい。

 逃げ出したくなったらあたしを怒りなさい。

 全てをあたしのせいにして良いから。

 だからお願い、生きて」






「う、うわああああああああっ!!!」



 決壊したように流れ落ちる涙と共に、歩の口から叫び声が溢れる。

 魂からの叫びにも聞こえるその声を受け止めるべく歩を抱きかかえると、離さないとばかりにしっかりと腕を回す。





 遠く、橋の方で車のライトが光るのが見えた。

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