第153話 嵐の痕

 暖かな日差しと優しい風を身体に受けながら、たった一言送られてきたメッセージをもう一度眺める。



『会えませんか』


 待ち合わせの時間はまだ先なのに、気が急いていたようで随分と早く着いてしまった。


 いつの間にかおおかみ町にも春が来ていたらしく、事務所の前の桜の木が淡いピンクの花を広げている。日曜の昼間とあって普段以上に人気のないためか、穏やかで静かな時間が流れている様に思えた。



 あれから、二ヶ月。


 まるで、悪夢だったんじゃないかと思えるあの日以来、ぱたりと途絶えた歩からの突然の誘い。その意図が分からないままただ時間が過ぎるのを待つ。





 小さく砂利を踏む音が聞こえて桜の木からゆっくりと視線を離すと、門の前に歩が立っていた。



「お待たせしました」

「……まだ約束の時間には早いわよ」


 お互いの無事な姿を確認するようにしばらく見つめ合った後、謝罪を軽い調子で流すと歩が小さく笑う。


「いつ退院したの?」

「1月の中旬くらいです。それからしばらくは家で療養してました」

「本当に大丈夫なの? また痩せたんじゃない?」


 服の上からでも細くなったと分かる身体に春海が視線を向けると、歩が困ったように自分の身体を見る。


「これでも大分戻ったんです。

 花ちゃんにもちゃんと合格もらってますから」

「そっか……」

「『HANA』も明日から再開するって言ってました」

「……」


 川から引き上げた歩を泣きながら抱きしめた花江の姿を思い出す。あれから一度も会っていない花江もどうやら元気らしい事に内心胸を撫で下ろした。


「それより、春海さんは大丈夫でしたか?」

「あたしは大したことなかったもの。一週間くらいで治ったかな」


 歩が話の矛先を変えるように訊ねてくるのを曖昧に返す。その一週間は熱と咳、打ち身に苦しみながら寝込んでいたものの、病院に逆戻りした歩に比べたら大したことはなかったのだろう。




「歩、校庭の方に行ってみない?

 桜の木がたくさんあるの」


 ふと思いついた誘いに頷いた歩が春海の隣に並ぶ。ポケットに手を入れたまま事務所をぐるりと回り、広々とした校庭に出ると予想通りの光景が広がっていた。


「お花見日和ですね」

「本当ね」

 

 満開に近い桜の木々に目を向けながら、その景色を楽しむ様にただ黙って眺める。



「春海さん」

「ん」


「随分遅くなりましたけど、あの日の事を謝りたかったんです。

 私のせいで大切な場を、春海さんの日常を滅茶苦茶にしてしまいました。

 本当にごめんなさい」

「歩が謝る必要なんてないわよ」


 深々と頭を下げた歩に苦笑しながら告げる。

 警察沙汰にはならなかったものの、あの夜の出来事は役場の不祥事として結局は公表された。成り行きとはいえ、最初に佐伯を殴った勇太は責任をとって退職し、佐伯は今も謹慎処分中だ。二人だけではなく『HANA』もあれ以来営業を再開していなかった。



 理不尽な結末に何度も悔し涙を堪えた日々を思い出す。

 ただ、時の流れは怒りも恨みも悲しみも全ての感情を少しずつ風化させていて、今では過去の事として受け止められるようになっていた。

 あの日を境に壊された日常が今は違う形となって落ち着きを取り戻しつつあり、だからこそ、どちらかというと被害者の立場にあった歩を笑って否定する。


「いいえ、佐伯さんがああなってしまったのも全て私の責任なんです。

 だから、ごめんなさい」

「……分かった。

 謝罪は受け入れるから」


 一歩も譲ろうとしない歩に根負けしたように謝罪を受け入れると、ようやく歩が頭を上げる。真っ直ぐに見つめてくる歩の視線が今日はやけに居心地悪く思えて、桜に視線を移した。

 隣で同じように桜を見ていた歩がやがて口を開く。



「私、この町を出ます」



 何も言えなかったのは言葉の意味が理解出来なかったから。驚きを隠せない春海に歩が落ち着いた様子で続ける。


「住む場所も決めて、引っ越しも昨日終わらせてきました」

「……どうして」


 言葉に詰まる春海に歩が優しく微笑んだ。


「本当なら私も罰を受けるべきだったんです」

「違う!」

「いいえ、私、本当に子供でした。

 自分の都合ばかり考えた私の身勝手さが全てを招いたんです」

「それは言い過ぎよ!

 歩は悪くない!」


「事実ですから」と小さく笑った歩が、ひらひらと落ちてきた花びらにそっと手を伸ばす。


「春海さんも、勇太さんも、佐伯さんも、花ちゃんも、あの場にいた人全てに私は取り返しのつかない事をしてしまいました。きっと私が知らないだけで他にも迷惑をかけた人がいるんだと思います。

 それなのに、私だけが子供という理由で何もなかったように過ごす訳にはいかないんです」

「……」


「だから、この町を出ようって決めたんです。それが私に出来る謝罪の形なんです」


「そんなの理由にならないわ!

 歩が一人で責任を負う必要なんてないし、あたしと二人で頑張れば良いじゃない!

 それに、また傷ついたらどうするのよ?」


 知らずのうちに必死な声となった春海に歩が顔を向ける。


「春海さん、あの時私に言った内容覚えてます?」

「え?」

「結構際どい言葉でしたよ。

 愛の告白と捉えられてもおかしくないくらい」

「そ、それは……」


 あの時告げた言葉に嘘はなく、その言葉も内容も心からのものだった。ただ、歩を思う気持ちはどこまでも恋愛感情とは別であり、それを歩自身から指摘されるとは思わずに言葉を詰まらせる。


「前に言ってくれましたよね?

 春海さんは私を否定しない、どんな事があっても味方でいるって。

 私がここに残れば、あなたはきっと自分の言葉に苦しむ事になる。私の気持ちを受け止めようとして、悩んで、苦しんで……私は春海さんの側にいたいって言いましたけど、あなたに依存はしたくないんです。

 あなたが幸せになれない、そんな未来を私は望みません」

「……」


 遠くを見上げるように歩が視線を上に向ける。


「私、あの時、心が壊れていたんだと思います。

 何もかもがどうでも良くて、誰の事も考えられなかった。自分がここから消えるんだって、ただそれだけを思ってました。

 春海さんは些細な事だって言いましたけど、私にとって同性を好きになるというのは今だに凄く抵抗があるし、そう簡単に認められるものではありません」


 歩のほろ苦さの混じった言葉がじわりと心を責める。


「だけどあの時、春海さんの言葉が壊れた私の心を救ってくれたんです。

 お世辞とか例えとかじゃなくて、本当にあなたは私を救ってくれました」


 春海に顔を向けた歩がそっと笑みを浮かべた。


「私は弱い人間ですから、きっと傷つくし、どこかで泣く事もあるかもしれません。

 それでも、春海さんの言葉がある限り、もう二度とあんな真似はしないって約束します。

 だから、春海さんは自由になって下さい」

「歩……」


「それに」とどこか内緒話をするよう歩が続ける。


「本当はもう一つ理由があるんです。

 実はもう一度自分をやり直す良い機会だと思ったんです。折角だから独り暮らしもしてみたくて」


「花ちゃんを説得するのに随分かかりましたけど」と歩が笑う。


「……それなら、ここでも良いじゃない」

「それは駄目なんです。

 きっと花ちゃんや春海さんに甘えちゃいますし……第一、ここには居づらくなりましたから」

 

 分かりきっていた答えに思わず黙ると、歩が柔らかな表情を浮かべた。


「春海さんだけじゃなく勇太さんもいます。私は一人じゃありません」

「……勇太に会ったの?」

「はい。

『悪かったな』って言ってくれました」



『悪かった』


 ──あの時、佐伯を止められなかったことか、歩の事情を知りながらも黙っていたことか?



「……あたしからの連絡は無視したくせに、勇太には会ったんだ」

「そ、それはっ、まだ心の準備が出来てないっていうか、その、春海さんは特別でっ」


 今となってはその謝罪の意味を訊ねることもない勇太との別れを頭の片隅で思い出しそうになり、心の奥の不満をぶつけると歩が分かりやすく狼狽える。普段と何も変わらないその姿を思わず笑った春海に、一瞬きょとんとした歩がつられたように笑顔を見せた。


 その表情は今まで見たどんな顔よりもずっと穏やかで──つんと鼻の奥に痛みを感じ、さりげなく上を向く。

 青い空が目に染みたようで、思わず瞼を閉じた。



「……もう、決めたんだ」

「はい。

 私が自分で決めました」

「……どこに行くのか聞いて良い?」

「内緒です」


「……歩」

「はい」

「あたしたち、結局何も出来なかったわね。

 歩の誕生日を祝うのも、映画の続きを観るのも、二人で出掛けようって約束したのも……全部……全部」


「……いつか、出来るかもしれません」


 自分の言葉に初めて動揺を見せた歩が掠れた声で答える。その一瞬に歩の本心を覗けた気がして、少しだけ安心した。


「……そうね」


 歩の優しい嘘に微笑むと、ゆっくり瞼を持ち上げた。

 まだ大丈夫、今ここで表情を崩す訳にはいかない。


 前を向く歩と笑って別れよう、そう決めたのは他ならぬ自分だから。




「分かった」


 諦めにも似た感情が深いため息に混じって空に溶ける。歩は、自分を納得させるため一体どれ程考えたのだろう。

 引き留める事さえ出来ない自分が酷く悔しくて、それでも約束通り笑顔を作る。


 そんな春海の姿に安心したように歩も微笑んだ。




「春海さん。

 私、あなたが好きです」



 ふわり、と風が駆け抜け、花びらがはらはらと舞った。



「きっと初めて会った時から。

 あなたに憧れて、あなたの隣で過ごせた日々は苦しくて、辛くて、それでも、とてもとても幸せでした。

 私、19年しか生きてないですけど、この先の人生であなた以上の人は現れないって断言出来るくらい、あなたの事が好きです」



 心のどこかにそんな予感があったからこそ、驚く事もせずに歩の言葉を受け止める。


 満開の桜の中で自分の気持ちを伝える──告白をするのにこれ以上にないくらい整ったシチュエーションはまるでドラマのワンシーンのようにさえ思えてしまう。歩の事だからきっとそんな演出は考えていなかっただろうが。


 それでも、最後の最後にこの言葉を持ち出したのは、歩なりの配慮なのだろう。この町から出ていくのはあくまでも歩自身の意思であり、決して告白の結果のせいではない、と。

 そのどこまでも自分を思う優しさに答える事が出来なくて、ただ沈黙だけが続く。



「春海さん。

 私、生まれて初めて好きな人に告白するんです。

 どうか、私の恋を中途半端なままにさせないで下さい」



 ──答えてしまえば全てが終わるのに


 止めを刺して欲しいと願う言葉とは裏腹に穏やかなその表情を見つめてから、ようやく口を開いた。



「あたし、は」



 覚悟を決めるように何度か大きく深呼吸を繰り返した春海を励ますように歩が言葉を待つ。


「あたしは歩を大切に思ってる。

 だけどそれは、友人としての気持ちで、歩の好きとは違う。

 だから……ごめん。

 歩の気持ちには応えられない」



「分かりました。

 ありがとうございます」


 望んでいたはずの答えにそれでも歩が痛みを庇うように微笑む。


「これですっきりしました。

 私、そろそろ帰りますね」


 くるりと背中を向けた歩が、直ぐに足を止めた。


「春海さん。

 最後にお願いを一つだけ聞いてもらえますか?」

「……何?」



 ぽろぽろと溢れる涙に構うことなく見せた笑顔は、いつか撮ったその表情よりもずっと輝いていて──もう会えないかもしれないその姿を目に焼き付けるように歩を見つめた。




「どうか幸せになって下さい」

 








〈第二部 了〉


 

********************


 ここまでお読み下さりありがとうございます。


 これで、第二部は終了となります。

 物語はこれで終わりません。これから最後となる第三部へと続きますので、今しばらくお待ち下さい。


 第三部については現在構成を組み立てている段階ですが、この物語の終わりだけは連載開始から決まっていて、私の中でそれは今でも変わりません。

 私の目指す歩の幸せが最後まで形になることを目指して、この物語を続けていきたいと思います。

 




 最後に、応援、コメント、評価、フォロー等たくさんの励ましを本当にありがとうございました。この辛い展開の多かった第二部を最後まで書き続ける事が出来たのは、読んでくださった皆さんのお陰です。



 菜央実

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