第129話 変化(18)

 小さなノックと共に現れた花江に気づくと、繋いでいた手をそっと布団に戻して立ち上がる。花江から両手に抱えた大きめのバックを受けとると静かに置いた。


「ありがとう。

 歩はまだ起きそうにない?」

「さっき一度目が覚めたけど、また眠ったわ」


 理由の分からないままの笑顔を何となく言いそびれてそう告げると、花江がほっとしたように歩の顔をのぞきこむ。


「起きたのなら良かった。

 春海ありがとう」

「え、まだ二時間経ってないわよ。これ、歩の着替えよね、私も荷ほどき手伝おうか?」

「ふふ、それは流石に遠慮しておくわ」


 断られる前提の申し出は案の定「じゃあ、そこに座ってて」と笑顔で却下される。




「花江さん」

「何?」

「歩が無理したのって、私が原因だったりする?」


 ベット脇の狭いロッカーにタオルを並べていた手が一瞬止まり、再び作業に戻る。春海の方を向かないまま花江が笑顔を浮かべた。


「何言ってるの。

 そんな訳、」

「花江さんには話してないんだけど、私、圭人からプロポーズされてるの」


「……そう」


 暗に歩には打ち明けてあるという言葉のニュアンスに気がついたらしく、花江がタオルを入れ終わったタイミングで立ち上がる。


「私は歩からも春海からもきちんと事情を聞いた訳じゃないから、何とも言えないけど……歩は歩の事情があって、春海は春海の事情があったんでしょう。

 今回はそれが偶々重なっただけよ」

「……」

「それにプロポーズっておめでたい事じゃないの。だから、そんな悲しい事言わないで。歩だってきっと同じ思いだろうし、皆が落ち着いたならゆっくりお祝いしましょう」


 春海が口を開こうとしたその時、どこからか聞こえてきたマナーモードの鈍い音が会話を途切れさせる。


「あ、ごめんなさい!

 姉が着いたみたい」

「それなら、迎えに行ってきたら?

 戻るまではここにいるから」

「じゃあもう少しだけお願い」


 ぱたぱたと出ていった花江を見送りながら、途切れてしまった会話を思い小さくため息をついた。


 ◇


 廊下をこちらに向かって小走りする足取りがぱたりと止み、そっとドアが叩かれた。花江が駐車場から戻ってくるには随分と早い到着に看護師の巡回かと思いながら返事をする。


「はい」


 ドアの開く気配に振り返ると、病室の入り口に立つ見知らぬ女性と視線がぶつかる。お互い戸惑いを隠せないまま、先に口を開いたのは女性の方だった。


「あ、その、ここは本多歩の病室でしょうか?」

「はい。

 そうですけど……」


 春海の返事に「失礼します」と入室してきた女性が、歩の姿を見た途端顔色を変える。


「歩!」

「あの、さっき目が覚めて、また眠ったみたいなので……」

「!……そうですか」


 叩き起こさんばかりの女性の表情に先程の自分と同じ様な心境を察してそう告げると、安心したように肩の力が抜けた。


「歩のお母さんですか?」


 椅子を勧めながら訊ねると、女性が気がついたように居ずまいを正した。


「ご挨拶もせず失礼しました。

 本多里江と申します」

「私、歩、さんの友人で鳥居春海といいます」


 先程「さん」付けを忘れた事を思い出し、ひやりとしながらぎこちなく挨拶を返す。そんな春海の態度に里江は気づかなかったようで、視線が再び歩に戻った。


「……」


 年齢は四十代位だろうか、よくよく見れば目元は歩や花江と重なる部分はあるものの、歩の母という割にはあまり似ていない気がする。


 僅かに乱れた髪に外出するための必要最低限の装いといった姿がいかに歩を心配して駆けつけたのか物語っていて、そんな春海からの視線に気づいたらしい里江が居心地悪そうに椅子に座り直す。


「妹から娘が倒れたって聞いて、慌てて駆けつけてみれば原因が胃炎って。本当に人騒がせですいません」

「いえ、そんな事ありません。

 詳しい事情は分かりませんけど、歩さん、何か悩み事があったみたいで。私が彼女の事を少しでも気にかけておけば良かったんです。

 ……だから、歩さんを責めないで下さい」

「……」


 歩を庇う説明に里江が驚いたような顔で見る。


「あの、……鳥居さん、でしたか」

「はい」

「失礼ながら……その、友人と仰いましたが……」

「?」


 どこか不安げな里江の問いかけを不思議に思いながらも続きを聞き返そうとすると、ノック音が再び響いた。


「姉さん!」

「花江」


 ドアの向こうから現れた花江に里江が立ち上がる。


「先に降りたなら、そう言ってくれれば良かったのに。車から降りてきたのが義兄さんだけだったから驚いたわ」

「ごめんなさいね。

 つい……」


「母さん、歩は?」


 里江がばつの悪そうな表情を浮かべていると、花江に続いて入ってきた男性がせかせかした足取りで現れる。険しい顔でベッドに眠る歩をのぞきこみ、そのやつれ具合に眉を寄せた。


「今眠ってるみたい」

「そうか……歩が迷惑かけたな、花江ちゃん」

「そんな事ないわ。

 歩は一生懸命手伝ってくれてるし、むしろ私が甘えてる方なのよ。

 ただ、今回は私が悪かったの。ごめんなさい」

「そんな訳ないだろう。

 花江ちゃんにばかり歩を押し付けてしまって申し訳ないのは私たちの方だ」

「あなた」


 これ以上のやり取りを終わらせるかの様に里江が男性をいさめる。ぐっと口を結んだ男性がようやく春海の存在に気がついたようで戸惑いの表情を浮かべた。


 抜け出すタイミングをうかがっていた春海がバックとコートを片手に持ち、夫婦に向かって頭を下げる。


「あの! 私はこれで帰りますので。

 歩さんを宜しくお願いします」

「あ、はい!

 わざわざありがとうございました。

 後程、改めてお礼に伺いますので……」

「すみません。

 お世話になった方に挨拶もせずにお見苦しいところを……娘に付き添って下さりありがとうございました」

「い、いえ!

 あの! また、お見舞いに来るつもりですから、本当に全然気にしないで下さい!」


 深々と頭を下げる夫婦に慌てながら視線で花江に助けを求める。


「姉さん、義兄さん紹介するわね。

 こちらは私の友人の鳥居春海さん。普段から私も歩も色々お世話になってる人なの」

「あぁ、花江のお友達の方でしたか……

 本当にありがとうございました」

「いえ」


 幾度となく述べられるお礼に恐縮しながら病室を出て、廊下を進む。


 ふと、花江の紹介に安心したような里江の口調が何となく心に引っ掛かった。

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