第128話 変化(17)

「花江さん、私が歩に付き添っておくから少し休んだら?」


 日頃疲れをあまり顔に出さないはずの花江の様子を見かねて提案すると、花江が困った表情を浮かべた。


「それは流石に悪いわよ」

「ここまできて何遠慮してるのよ。

『HANA』の仕事もあるんでしょう。幸い私は仕事が休みだし、付き添うくらい大した事ないわ」

「春海こそ彼氏と出かける予定無かったの?

 明日は仕事でしょう」

「あ、」


 花江の問いかけに忘れていた今日の予定を思い出すものの、直ぐに笑顔を浮かべた。


「少し遅れるって連絡しとくから、気にしないで」

「でも」

「大丈夫、事情を話せば分かってくれる人だから。

 丁度良いわ。今のうちに電話しておくから」


 今まで歩に付きっきりで恐らく休憩する余裕すら無かった花江を思い、これ以上遠慮をさせまいとスマホを片手に立ち上がろうとすると花江が押し留める。


「待って。

 それなら二時間くらいお願いして良い?」

「私はもっと長くても構わないわよ」

「実はさっき姉に連絡を入れたの。

 今、義兄さんと一緒にこっちに向かってて、二時間以内には私か姉のどちらかがここに着くと思うから」

「花江さんのお姉さんってことは、歩のお母さん?」

「そう。

 加田木市に住んでるの」

「……結構遠いのね」


 おおかみ町とは真逆の場所に位置する地名に驚きながら頭の中で距離を測る。花江の言葉通りなら軽く二時間を越えるはずだが、その気遣いを無下にしたくなくて頷いた。


「ええ、分かったわ。

 じゃあ先に圭人に連絡してくるから」


 ◇


「本当にごめんなさいね。

 なるべく早く戻るから」

「いいのいいの。

 気を付けてね」


 申し訳なさそうな花江を送り出し、ベッド脇に置かれた丸椅子に腰を下ろそうとして羽織ったままのコートに手を掛ける。


 ポケットのスマホを出しながらコートを脱ぐ間、電話の先の不機嫌さが滲んでいた圭人の声を思い出した。春海にとっては緊急事態とはいえ、圭人にとっては無関係な交わりでしかなく、その反応も当然だろう。

 それでも遅刻の理由にちゃんと納得してくれたし、「遅くても良いから」と告げてくれた優しさをありがたく思う一方で、早く会いたいなら圭人がこちらに来れば良いのにと考えてしまうのは自分の我が儘だろうか。


「後でうんと優しくしてあげよう……」

 

 憂いを払うようにスマホをバックに投げ込むと、椅子を引き寄せて歩の直ぐ傍まで近づいた。



「……」

 

 やつれた、そう思う。

 痛みから解放されたためか深い眠りに落ちているその目の下には隈が浮き上がり、頬のラインは随分と細くなってしまっている。




『あの子が佐伯くんと無理して付き合ってるって分かってたのに』


 あの時、花江を落ち着かせるためにあえて追及はしなかったものの、歩をここまで追い詰めた原因は何となく理解出来た。その一方で、自分の中に沸き上がってくるどうしようもないやるせなさに両手を強く握りしめる。



「どうして一言でも言ってくれなかったのよ……」


 歩も、花江も。


 友人と思っていた二人から何も聞かされていない自分はそれほど信頼されていないのだろうか。悔しさと不安が渦巻く胸中をそれでも必死に抑えつつ、掛布団の上に投げ出されている手にそっと触れる。


「……あたしは信じてるから」


 当然の様に反応の返ってこない手を両手で包むと自分の体温を分け与えるかのようにそっと引き寄せた。





「………!」


 包んでいた手が僅かに動きはっと顔を上げると、閉じていた瞼が持ち上がっていた。合わない視点を定めるかのようゆっくり二、三度動いた瞳にぼんやりと光が戻る。



「歩」


 小さな呼び声に反応するよう、ゆっくり視線が春海に向けられる。虚ろな瞳が春海の顔を捉えると、繋いでいた手に歩の指がゆっくり絡まった。



「…………はるみさん」

「!」


 弱々しいながらも迷い子がようやく母親と出会えたような、嬉しさで溢れた笑顔に返事をすることさえ出来ず、ただ歩を見つめ返す。




「歩?」


 我に返った春海が呼び掛けたのは、歩が再び深い眠りについてしばらく経った頃だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る