第124話 変化(13)

 テーブルに置いていたスマホが短く振動し、佐伯が未練たっぷりの表情で立ち上がる。


「そろそろ出ようか」

「はい」


 佐伯の言葉に頷いてテーブルの上のカップを軽く片付けてから立ち上がると、視界が軽く歪んだ。


「歩さん?」

「……すいません。

 ちょっと立ちくらみがして……もう大丈夫ですから」


 心配そうに訊ねる佐伯に大丈夫とアピールすると数歩分遅れてレジに向かう。


「あ、お金を……」

「歩さんは飲み物だけだったから良いよ」

「……ありがとうございます」


 さっさと支払いを済ませた佐伯がレシートを受けとりながら、尚も気遣うよう視線を向けてくる。


「サンドイッチも食べなかったし、ほんとに大丈夫?」

「少し摘まんできたので……大丈夫です」


 形ばかりの笑みを作って見せると、納得してないような表情のままそれでも佐伯が引き下がった。『押す』と書かれたドアを広げれば、暖房の効いた店内とは別世界の様に暗く冷たい世界が広がっている。


「うわ、寒いね!」


 冷たい風に小さく身震いしていると佐伯が肩を抱くように身体を引き寄せてくる。


「さ、佐伯さん!」

「車に戻るまでだから。

 風邪引かせるわけにはいかないよ」


 断る理由を思い付かずそのまま黙って駐車場の奥を目指す。じくじくと痛む胃を庇うよう両手を胸の前に組みながらも佐伯との距離をさりげなく取っているのを感じているのか、触れる身体がやたらと近い。日を追う毎にほんの僅かの距離でも人目を憚らなくなったそのスキンシップが歩の心を更に重くする。



「歩さんは今度の収穫体験に参加するんだよね?」


 車中で右手を取られ、指を絡ませながらハンドルを握る佐伯が問いかける。


「あ……はい」


 参加申し込みに丸を付けて提出したのは佐伯との関係が変わる前のことだった。いっそのことキャンセルしようかと悩んでいるものの、ここまでこぎ着けた春海の事を思うと、未だ踏ん切りがつかないでいる。


「良かったらさ、当日の朝、迎えに来るから一緒に行かない?」

「でも……」

「受付は僕が済ませておくから、時間まで車の中でゆっくりしてて良いよ。あ、そうだ! 前、話してたパン屋さんのパンも買っておくから食べてみてよ」

「いえ、それは流石に申し訳無いですし……」

「全然迷惑じゃないから! っていうか、僕としてはもっと甘えて欲しいんだけど」

「……」


 絡めた指が歩の手の甲を撫でる。その感触に緊張でぴくりとも動けない歩を気づかないまま、佐伯が言葉を続けた。


「それで、折角、日曜日でクリスマスなんだし、そのまま夜も一緒に過ごせないかな?」

「!」

「そ、そのっ、何て言うか、変な意味、も、無くは、ないけど! あ……あの、ただ純粋に僕は歩さんと過ごしたいだけだから!

 その、無理矢理とか、じゃないからね!」


 思わず息をのんだ歩に佐伯が必死に説明するも、いつの間にか二人を繋いでいた手はじっとりと汗が滲んでいた。


 ◇


「それじゃ、またね」

「おやすみなさい……」


 あれ以来、キスを求めてこない佐伯が名残惜しそうに歩を送り出す。その事に安堵を覚えながら、意を決して佐伯と向き合った。


「あの、やっぱり……さっきの話は遠慮しておきます」

「いや、あれは僕の言い方が悪かったんだ!

 ちゃんと帰りは送っていくから一緒に行こう?」

「でも、」


 尚も断ろうとする歩の腕を佐伯が掴み、ぐっと距離を詰めた。


「!?

 は、離して、下さい!」


 佐伯から必死に離れようともがくも、狭い車内ではろくに身動きが取れない。手を振り払おうと必死な歩を佐伯が泣きそうな表情で見つめた。


「歩さん、いい加減に僕を好きになってよ」

「そ、んな……」

「!」


 途切れた言葉の先に何かを感じたのか、身体を押さえつけた佐伯が唇を塞いでくる。息苦しさの中、声を出せない恐怖でもがいているとしばらくして佐伯が離れる。


「……ご、ごめん!」


 荒い呼吸の合間に聞こえるすすり泣く声に気づいた佐伯が慌てて歩の背中を擦る。

 

 その手を拒絶する気力もないまま、溢れだした涙はただ静かに流れ落ちていった。

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