第120話 変化(9)
おずおずと隣の椅子に手を掛け浅く腰かけると、両手で包み込むようにカップを持っていた春海が身体を歩の方に向ける。
「歩は何か飲まないの?」
「いえ……」
最近胃が痛むせいであまり食欲が湧かず、コーヒーを飲みたいとも思えなかった。市販薬を飲めば落ち着くため花江には黙っているが、中々調子が戻らない。
「……」
「……」
まるで叱られるのを待つ子供のように膝に手を置き、前のテーブルを眺めるだけの歩を困ったように春海が見つめる。
「歩」
握りこぶしを作った手を解すように春海の指が触れ、両手をそれぞれ取られると優しく引かれた。必然的に回転椅子に座った歩も春海の方へ向けられ、身体ごと向かい合う形になる。
「……」
春海の長い指が自分の荒れた手のひらを労るように包んでいる。その少し冷たいほっそりとした手の感触は日頃差し出してくるごつごつとした力強い手とは違っていて、どうしようもない切なさが込み上げてくる。
「……どう、して」
「ん?」
「どうして……何も……言ってくれないん、ですか」
何度も心配してくれた、そんな春海を避け続けていた自分は嫌われて当然なのに理由すら訊ねようとしてくれない。頭の中で考えていた言い訳は繋いだ手のせいであやふやとなり、今となってはきちんと言える自信もない。
顔を上げれないままやっとの思いでそれだけ言うと、苦笑した様な雰囲気が指から伝わってくる。
「言うつもりだったわよ。
少なくともここに来る前まではね。すごく色々考えた」
「……」
「だけど、どうでも良くなったかなぁ」
「あ、どうでも良い訳じゃないけどね」と笑いながら付け加える春海の声は穏やかで、嘘を言っているように思えない。
「やっと歩に会えたもの。
何も話さなくて良いから、ちゃんと顔を見せて?」
「……」
何度かためらった後ようやく顔を上げると、目の前の春海と目が合った。春海が右手を離し顔色を確かめるようにそっと頬をなぞる。
「花江さんが言ってたけど、顔色悪いわよ。少しやつれてるみたいだし、ちゃんと眠れてる?」
「……」
「心配してたのよ」
「っ」
春海の言葉に目の前がゆっくりとぼやけ滲んでいく。奥歯をぎりぎりと噛み締めて滲む視界を瞬きでクリアにするも次々溢れる涙は止まってはくれなくて、ただ静かに涙が頬を流れていく。
「は、離して、下さいっ」
「うん」
春海の返事とは裏腹に繋いだ手は離れようとはしない。
「私っ、一人で、大丈夫ですから」
「うん」
「春海さんが、心配する事なんて、何もありませんから」
「うん」
「会いたかったなんて、全然、思ってなかったですから」
「うん」
「……だからっ、っ、だからぁ!」
勢いよく立ち上がり、包んでいた春海の手を震えた指で引き剥がしていくと戸惑ったような表情の春海が自分を見つめている。
「もう!……もう、無理、なんです!
私は春海さんがっ!」
「歩?」
あと少し、喉まで出かかった言葉を必死に抑えると、どろどろの感情の中から懇願と絶望の混じった言葉を引っ張り出す。
「お願いだからっ、これ以上私に優しくしないでっっ!!」
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