第119話 変化(8)
「歩」
洗い終えた食器を重ねている手を止めて顔を上げると、まだ営業中だというのに花江がエプロンを外している。
「今日中に振り込む用事を思い出したの。今から銀行に行ってくるから」
「うん、分かった」
時計を見上げれば残り三十分ほどでランチの営業が終わる。花江が出掛けるのなら『OPEN』のプレートは下げてしまっても良いだろう。
「じゃあ、片付けはしておくね」
「それは帰ってきてからするから良いわよ。
それより頼みたいことがあるの」
「何?」
「もう少ししたら一人、お客様が来られるの。
悪いけど、その人のランチだけお願い出来る?」
「え? うん、別に良いけど……」
花江の口振りからして馴染みの客らしい。幸い、今日のメニューはポトフで、それほど調理を必要とすることはない。
「とりあえず、プレートは変えても鍵は掛けないでおいて。本人には開いてるって伝えておくから。
それじゃお願いね」
奥に消えた花江がやがて車で出ていき、その姿を窓越しに見送ってから、ポトフの入った鍋の中身を確認し直ぐに提供出来るように皿を並べておく。
訪れるであろう客をカウンターの中でしばらく待っていたものの、慣れない立ち位置はどうしても落ち着かなくて自分の定位置に戻る。車が来れば音で分かるだろうと、先程の作業を再開した。
◇
カランと小さく鳴ったベルに顔を上げると、思いがけない人物が目の前に立っていた。
「こんにちは、歩」
「あ……う……」
驚き過ぎて声の出ない歩を気にすることなく、春海がゆっくりカウンターに歩み寄ってくる。ここから逃げ出そうにも花江はおらず、表情を作る余裕すらないまま停まった思考で必死に言葉を探す。
「そ、の……私……ランチのお客様を待ってて……だから、」
「ん? ああ、それなら大丈夫。
あたしが花江さんに頼んだの。歩と二人きりになりたいって」
ようやく口にした断りの言葉を春海が笑って一蹴したことでこの場が初めから仕組まれていたことを察し、さっと歩の表情が変わる。そんな歩をくすりと笑うと春海がいつもの席に座った。
「注文、良いかしら?」
「は、はい」
食事に来たという理由は本当らしく、未だお茶すら出していない事に気づいた歩が慌てて春海の前に立ち注文を受ける。
「……」
ぎこちない歩の態度に何を言うわけでもなく、春海は楽しそうに料理を待っている。春海の意図が分からないままポトフとご飯を皿に盛り付け、小鉢として作ってあるコールスローサラダを取り出す為に冷蔵庫を開けた。扉を閉めようとして、ふと卵パックが目に入る。
春海がこの時間に客として訪れるのは随分久しぶりだ。おそらく年末年始を挟んでますます忙しくなるであろう彼女が折角来てくれたのなら少しでも食事を楽しんで欲しい。
「あの……」
「ん?」
「少しだけ時間を貰えたら作りますけど……食べませんか?」
取り出した卵を見せると、それだけで分かったらしく春海が微笑んだ。その表情が何故か泣き笑いのようにも思えてどきりとする。
「じゃあ、遠慮なくお願いしようかな」
「は、はい」
「温かいうちにどうぞ」とポトフを春海に渡してからフライパンに火をつけ、ボウルに卵を割り入れた。砂糖、醤油を目分量で入れると菜箸で静かに混ぜ合わせながらフライパンの表面の熱を確認し、油を塗る。
十分に温まった事を確かめて卵液を流し入れれば、じゅう、と音を立てて卵液に火が通る。菜箸で手早く手前に寄せながら次を流し込み、その都度同じ動作を繰り返すとあっという間に卵焼きが出来上がった。皿に移し包丁で切り分けると、春海がこちらを見ていた事に気づいた。
「あたし、歩が料理しているところ初めて見たわ」
「……そうですか?」
置かれた箸の位置すら変わっていないことからどうやら最初から見られていたらしく、途端にかぁっと頬が熱を持つ。ぎくしゃくした動きで卵焼きを差し出すと、これ以上の会話を拒絶するようにシンクの方へ逃げた。
◇
食器を片付ける歩と食事をする春海との間に会話はなく、店内は人がいると思えないくらい静かだ。洗って拭き上がった皿をまとめては棚に戻しているため春海に背中を向けているものの、食器を置く音や箸を動かす音が聞こえてくる度にカウンターに意識が向かってしまう。
「ごちそうさま」
挨拶と共に箸を置く音が聞こえ、身体に緊張が走った。今の春海は客としてここを訪れているのだから、ないがしろにするわけにはいかない。お腹にぐっと力を入れると意を決して振り向く。
「お皿、下げますね」
「ありがと。
久しぶりに美味しいご飯が食べれたし、卵焼きも美味しかった」
「……いえ」
食器を下げ、いつもの様に代わりのコーヒーカップを差し出す。
「ごめんなさい。
お菓子、最近全然作ってなくて……」
作る時間はあったものの、とても作る気にはなれなかった事を隠して詫びれば春海が少し驚いたような顔を向ける。
「そうなの?
ね、歩。折角だからコーヒーの間だけでも隣に座らない?」
ついに訪れた誘いの言葉を断ることなど出来なくて、観念したよう小さく頷くと食器をシンクに運んでからカウンターを出た。
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