第117話 変化(6)

「ありがとうございました」


 最後の客を送り出し、ようやく今日の営業を終える。

『OPEN』のプレートを回収するため外に出ると冷たい空気が薄手のシャツ越しに肌を刺し、寒さから逃げるよう店内に戻った歩を花江が呼び止めた。


「歩、片付けはするから先に上がりなさい」

「え、どうして?」

「夕方眠ってたでしょう。自分で気づかなくても身体が疲れてるのよ」


 春海に会いたくなくて自室に逃げ帰った後、いつの間にか眠っていた事を指摘され、ばつの悪い表情になる。


「寝たから大丈夫。

 それに明日はランチだけだから」


 何か言われる前にとグラスと皿の積み上がったシンクに移動してスポンジを手に取る。洗い始めてしまえば何も言われまいといった感じで意地でも動かなそうな歩を困ったように花江が見た。

 

「そういえば春海には電話したの?」

「……まだ。

 今日はもう遅いから明日する」

「そう。

 いつでも良いって言ってたけど、早めにしてあげて」

「うん。

 ……花ちゃん、明日も少し出掛けてくるから」

「ええ、分かったわ」

「……ごめん」


 それだけ告げて皿洗いを再開した歩の姿を花江が見つめる。歩に何があったのかは分からないものの、突然佐伯と付き合い出したと打ち明けてくれた頃から、どことなく様子がおかしい。昼の春海の態度から察するに彼女にも心当たりがないようだ。


 もしくは、何かあったものの春海が気づいていないだけなのか。


 口にはしなかったものの、歩の浮かない表情を見れば『出掛ける』というよりも、『連れていかれる』といった印象を受ける。



「何も無理して付き合う事はなかったんじゃない?」


 歩が自分の意思で決めたことだからと静観していたものの、見るに見かねてそう言うと、振り向いた歩が小さく微笑んだ。


「そんな事ないよ。

 私だってちゃんと男の人と付き合えるかもしれないんだよ。そうしたら、花ちゃんも心配要らないじゃない」

「でも……」

「そもそも春海さんは同性なんだし、素敵な彼氏もいる。普通に考えて絶対好きになっちゃいけない人なんだよ。

 春海さんがどんなに優しくても、受け入れてもらえないし、気持ち悪いって思うに決まってる!

 そんな女性ひとを好きでいるくらいなら、男の人と付き合った方が良いじゃない!」

「……歩」


 はっとした表情の歩が慌てたように、弱々しい笑みを浮かべた。


「ただ……ただ、気持ちの整理に時間が掛かってるだけだから……だから、大丈夫」


 再び皿洗いに戻るものの、時折袖で顔を拭うように何度か腕を動かす歩にそっと花江が口を開いた。


「春海が心配してたわよ」


「……」


 一瞬、ぴくりと跳ねた背中がしばらくして何事も無かったかのように戻る。その背中は既に何もかもを拒絶しているように見えて、それ以上声をかけることを諦めた。


 ◇


 片付けを終え真っ暗な部屋に戻ると、ベッドに置いたスマホからチカチカと光が見える。画面を開くと佐伯からのメッセージの下に春海からのメッセージも一件入っている。


「……」


 今まで何度か送られてきた『会って話がしたい』というメッセージは全て理由をつけて断っていて、きっと今回も同じ内容だろう。


 春海の事だ、既読がつけばきっと電話を掛けてくるに違いなくて、メッセージを開かないまま電源を落とす。


 ──会いたい


 でも、会えない。

 今、会ってしまえば、必死に閉じ込めてきた感情が溢れだしてしまいそうな気がする。


 すがりついて、泣きわめいて、駄々をこねて──そんな姿を見せつけられた春海がきっと困惑した表情を浮かべるに違いないから。



 ──春海さんに嫌われたくない


 結局、その思いが今の歩を支える全てだった。

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