第116話 変化(5)

 重い足取りで戻った部屋の中、電気をつける気にもなれず冷たいフローリングに座り込む。


「……」


 歩も恋愛に関しての一般的な知識は持っているし、春海を相手にキスやセックスを夢想したことも一度や二度ではない。だから、好きな相手にそういった行為を求める気持ちは理解出来る。


 そもそも佐伯は恋人だ。だからこそ、それを受け入れるのは当然の事なのに酷くショックを受けている自分がいる。



 ただ唇と唇が触れただけ、それほど大した事ではない。


 そう思う一方で、忘れようとすればするほど頭の中に先程の光景が浮かび上がり、じわじわと込み上げてくる吐き気に思わず口元を手で覆った。


 ◇


「歩、どこか具合悪いの?」

「え?」


 ランチが終わり一息ついたタイミングで、歩の顔をまじまじと見つめていた花江が心配そうな表情を向けた。


「頭が痛かったりとかは?」

「ううん。

 特に何も無いけど……」

「最近顔色が少し悪いわよ」


 心配をかけるまいと咄嗟に「ちょっと夢見が悪かったからかも」と続ければ、花江が納得したように頷く。


「夜出掛けるのは構わないけれど、無理しないようにしなさい。それと……辛いときはちゃんと断るのよ」

「うん……」


 口にこそ出さないものの、佐伯と頻繁に出掛けるようになった歩に複雑そうな表情を見せる花江が付け加える。花江にこれ以上心配をかけたくなくて素直に頷くとこれ以上自分に言及されないよう今日のディナーの段取りに話題を変えた。



 下拵えも済んだところで、休憩の為に花江が居住スペースに戻り店内は歩一人になった。普段ならカウンターでお茶を飲んだりお菓子を作ったりしている時間だが、そんな気分になれなくて一番奥の椅子に座ると何をするでもなくぼんやりしていた。


 あれから数日が経ち、ようやくショックから立ち直りつつあるも明日の夜は佐伯と再び出掛ける約束をしており、今から既に気分が重い。


 もし、再びキスされたら?

 もし、キス以上の事を望まれたら?


 どうすれば良い?

 何と言えば良い?


 何度も繰り返した問いかけに答えが出せなくて、両手で頭を抱える。



 ──逃げ出したい


 昔のように引きこもれたならどれほど楽だろう。閉じ籠っていた真っ暗な部屋は他人も時間も干渉する事のないたった一人だけの世界だ。ただ、今となってはあの時の孤独さも受け入れられそうなくらい歩の気持ちは追い詰められていた。




 外から聞こえる車のエンジン音に何気なく顔を上げると、一台の車が駐車場に入ろうとしているのが見えた。


「!」


 それが春海の車だと分かった瞬間、恥ずかしさと罪悪感が波のように押し寄せ、慌てて椅子から立ち上がると居住スペースに向かった。


「花ちゃん、やっぱり少しだけ休んでくるね」

「ええ」


 平静を装って花江に不審がられないようにすると、急ぎ足で自室のドアを閉める。程なくして聞こえてくる微かなベルの音と花江の声の間に挟まれた僅かな春海の声さえも今は聞きたくなくて、ベッドに潜り込むと頭から布団を被って耳を塞いだ。


 ◇


「休憩中だったのにごめんね」

「構わないわよ」


 カウンターを勧める花江を断って歩を訊ねると、どうやら部屋で休んでいるらしい。


「部屋に戻ったのも、春海が来るほんの少し前だったのよ。何か用事だったの?」

「ちょっと話したいことがあったんだけど。

 休むって珍しいわね」

「ええ、顔色が良くなくて……

 本人は夢見が悪かったって言ってたし、このところあまり眠れてなかったのかもしれないわ」

「そう……」


 花江の説明に一度だけ見た歩の苦しげな表情を思い出してしまい、顔が曇る。


「今ならまだ起きてるかもしれないけど、見てみましょうか?」

「ううん、良いの。

 ゆっくり寝かせてあげて」


「また今度聞いてみるから」と続けると花江がほっとした顔を浮かべた。その態度にこのところすれ違いばかりで姿を見ていない歩への心配が募る。


「ね、花江さん。後で歩に電話するよう伝えてくれない? 時間はいつでも気にしなくていいから」

「分かったわ」


 休憩の邪魔をするわけにもいかず、会えないのなら仕方がないとドアに向けた足を途中で止める。


「花江さん。

 歩に彼氏が出来たって聞いたんだけど、本当?」

「ああ、佐伯くんの事でしょう」


 当たり前のように佐伯の名前が出た事でどうやら歩は佐伯との関係を秘密にしている訳ではないらしい。


「こんなこと聞くのはすごく失礼って分かってるんだけどね」


 一言前置きした上で、花江と向かい合う。姪のプライベートに踏み込んだ質問に気を悪くするかもしれない。そう思うものの、歩に会えない以上少しでもその様子が知りたかった。



「歩、幸せそう?」


 何も飾らない、それでいて全てが詰まった質問に、花江がしばらく口を閉ざす。



「……そうね」


 一呼吸置いた後に返ってきたのは、肯定とも相づちともつかない曖昧な答えだった。

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