第115話 変化(4)
暗闇の中、スマホに表示された『通話中』の文字がゆっくりと消えていくのを見送ってから顔を上げる。
「電話、出なくて良かったの?」
「……はい」
今直ぐにでもかけ直して春海の声が聞きたい本心を押し込めてそう答えるも、佐伯は違う意味に解釈したらしい。ハンドルを持つ雰囲気がどことなく嬉しそうに変わる。
「ところで、歩さん。今週はずっと仕事?」
「はい」
「そっかぁ、まあ僕も連絡会続きだから仕方ないか」
「折角付き合い始めたのに」と残念そうな声に諦めが混じる。そんな佐伯とは対照的にしばらくはこうして出かけることもないと安堵している自分を悟られないようにそっと窓に視線を向けた。
「あのさ、仕事が終わった後少しだけでも良いから会えないかな?
あ、勿論疲れたりしているときは無理しないで」
「え? でも、さすがに夜遅くは……」
ディナーの終了時間によっては仕事上がりが深夜近くに及ぶことも多い。毎日の電話を受けることもまだ慣れないのにと思わず口ごもる歩にハンドルを握ったままの佐伯が笑みを向けた。
「僕は歩さんと会えるなら全然構わないよ。日付が変わるくらいまでは大抵起きてるから」
「……あまり期待しないでください」
「分かった」
佐伯の明るい口調が言葉とは裏腹な心情を表しているようで、小さく下唇を噛んだ。
慣れた、と思う。
清涼感のある車の香りにも、毎日のように掛かってくる電話にも、隣に並ぶ人が春海でないことにも。
春海への当て付けのために佐伯と付き合うことを了承したものの、そのひたむきさに自分のささくれた心が少しずつ落ち着きを取り戻しつつある事を自覚していた。
だから、きっと大丈夫だと思う。
春海の声を聞いただけでこれ程ざわつく胸もいつかは落ち着きを取り戻すに違いないと。
「そういえば、今日鳥居さんに僕たちが付き合った事を報告したんだけど」
「っ!
……何か、言ってましたか?」
佐伯の何気ない言葉にひゅっと息が止まりそうになり、動揺を隠しながら恐る恐る話の続きを促した。
「全然知らなかったって凄く驚いてたよ。
それと……」
常日頃から歩が春海の事を聞きたがると知っている佐伯がその時の状況を嬉しそうに話す。
──春海さんはどう思ったのだろう?
先程春海が電話したのはその事だったのかもしれない。祝うつもりでいたのか、何も言わなかったことを恨むつもりだったのか、いずれにせよ自分にとっては喜ばしい内容ではなかったはずなのに。
戸惑ったような口調も、苦笑いしながら切ったであろう最後の言葉も──呼吸をするよう容易く思い起こせるそれらを閉じ込めるように、手の中のスマホを強く握りしめた。
◇
「ありがとうございました。
おやすみなさい」
自宅用の入り口に近い駐車場に停まった車内でいつものようにお礼を告げた後、シートベルトを外そうとしていた手が不意に動かせなくなった。薄暗いルームライトの明かりを頼りに手元を見ると、歩の手の上に佐伯の左手が重なっている。
「佐伯さ!?」
顔を上げると目の前に佐伯の顔が近付いていて、唇に何かが触れる。
「……」
「……」
ルームライトの頼りない光が徐々に辺りを暗闇に変えていき、驚きすぎて声も出せない歩と恥ずかしそうに見つめる佐伯の表情を隠していく。
「おやすみ」
「……おやすみ、なさい」
強ばった唇を動かしてそれだけ告げると、自由になった手でシートベルトを外してよろよろと車を降りた。にこやかに手を振る佐伯を見送りながら、先程の出来事がじわじわと全身に広がっていくのを感じる。
──キス、された
付き合うからには当たり前の行為だし、その覚悟も心のどこかにあった筈なのに。
心の準備も覚悟もないまま終わってしまったその時はあまりにも呆気なさ過ぎて、夢であったかと思えるほど。その一方で、そんな都合の良い話では無いことも自覚してもいる。ただ、願うならば
──初めてのキスは好きな人としたかった
こんな形で失ってしまったファーストキスを思い出したくなくて、唇の感触を拭い去るよう何度も何度も手の甲を擦り付けた。
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