第110話 変化の予兆(9)

 重い金属同士の擦れる音が大きく響いてドアが開くと、埃を含む澱んだ空気を冷たい外気が一気に侵食していく。ある程度の寒さを覚悟していたものの、想像以上の気温の低さに思わず身を縮ませた。


「足下、気をつけて」

「は、はい」


 ライト代わりのスマホを歩に向けながら春海が慣れたように先に歩く。校舎の入り口から一歩外に足を踏み出せば、まるで別世界の様に暗く黒い景色が広がっていた。


「歩、ここ」


 春海の声と灯りを頼りに近づくと、バスの停留所にあるようなベンチがぽつんと置かれている。


「屋上にベンチって、わざわざ持ってきたんですか?」

「さすがにそんなことしないわよ。

 元々ここにあったの」


 手探りで隣に腰を下ろした歩を確認すると、春海がスマホのライトを消した。真っ暗な世界に慣れた頃、やがて目の前の闇から少しずつ様々な物が形を浮かび上がらせていく。


 民家の屋根、電柱、明かりの残る部屋、少し遠くに見える小学校、グラウンド傍の常夜灯の下を歩く猫。


「ね、上、見て」

「上?……!」


 そっとささやくような声に顔を上げると、空一面の星が広がっていた。冬特有の澄んだ空気のおかげかまばゆい輝きを放つ大きな星から、ごく僅かの光しか持たない小さな星まで大小様々な星がお互いの隙間を埋め尽くすように散りばめられており、その数に息を呑む。


「綺麗でしょう」

「……」


 目を奪われて声も出せない歩をむしろ満足したよう春海が続ける。


「最近見つけたお気に入りの場所なの」

「……凄い、です」


「ふふ、良かった。

 歩ならきっと気に入ってくれると思ったもの」


 秘密を共有した後のような弾んだ声に再びずきりと胸の奥が痛んだ。結局先程の質問は有耶無耶にされたままだし、この場所に連れてこられた理由も分からない。もどかしさも加わったせいかいつも以上に春海から振り回されている気がして胸の痛みが理不尽な怒りを伴ってくる。


 ──いっそのこと隣に座る無防備な顔を引き寄せて、その唇を奪ってしまおうか?


 星明かりだけではお互いの顔がはっきり見えないことを幸いに思いながら、それでも下衆びた想いをすり潰すように下唇を噛んだ。


「歩」

「……何ですか?」


 そんな後ろ暗い想いを抱いてるとは微塵も感じていないだろう明るい春海の声に、少し苛立ちながら返事をする。


「あたし、彼氏にプロポーズされたんだ」


「え」


 驚きのあまり真っ直ぐ前を向いたままの横顔を見返すも、春海はこちらを見ようともしない。


 ──プロポーズ、つまり、結婚?


「……結婚、するんですか?」


 明らかに震えた声に、それを問いただす事もなく春海が答える。


「する……のかな」


「そう、なんですね。

 ……おめでとうございます!」


 結婚といえば人生の一大イベントで、わざわざ二人きりになってまで報告してくれた春海に精一杯明るい声で祝いの言葉を贈る。


「あ、うん、ありがと。

 ……まあ普通は嬉しい事なんだよね」


 苦さの混じった春海の声からはどうやらあまり喜んでくれていないらしい。上辺だけの言葉を見透かされたのか、いわゆるマリッジブルーというものなのか、想像もつかない春海の心情を理解出来なくて困惑する。


「春海さん……嬉しくないんですか?」


「…………正直、悩んでる」


 苦悩の滲み出た口調に今までの態度が空元気であったことを知り、自分の考えの浅はかさを悔やみながら黙って春海の言葉を待った。



「本当は、一緒に住まないかって言われたの。あたしたち付き合って二年になるし……だから、二人で暮らすってことは実質プロポーズなんだろうなって思ってる」

「……」

「ただ、彼、今度転勤するの。だから、一緒に住むなら仕事を辞めてついていかなくちゃいけない」

「!!」


 ──春海さんが、この町からいなくなる!?


『結婚』という事実よりも、ずっとずっと大きな衝撃が歩を襲う。独身だろうが既婚者だろうが春海が手の届かない人であることは変わりない。だけど、このまま会えなくなってしまうことだけは嫌だ。


「あの! また転勤が終わったら帰ってくるとか、出来ないんですか?」


 一年、いや五年でも構わない、春海と再び会えるというのならどれだけ長くても待てる気がした。そんな歩の態度を静かに見つめたまま春海が続ける。


「圭人の会社ってね、全国あちこちに支社があるの。ある程度は転勤地の希望も聞いてくれるけど、どこに行くかは分からない。それに地域起こしプロジェクトの職員はおおかみ町に住所を登録している事が条件なの。だから、ここから離れるなら仕事を辞めないといけない」

「……」

「ね、悩むでしょう?」


 疲れたような乾いた笑い声が直ぐにため息に変わる。


「あたしは仕事を続けるつもりでいたのに、圭人からあたしが辞めて当然みたいに思われててさぁ」

「…………」

「確かに、圭人の方が年収も肩書きも遥かに上だし、同じ会社にずっと長く勤めてるから辞めるなんて選択肢は初めから無いって分かってる。

 だけど……だけど、あたしだって、ようやくやりがいのある仕事を見つけたんだよ?

 これならずっと頑張っていけるかもって思えて……半年しか勤めてないあたしに期待してくれてる人だっているのに!」


 溜め込んでいた想いを吐き出すような苦しく辛い声が辺りに響く。そんな初めて見る春海の姿に驚きながらも息を潜めるようにただ見守る事しか出来ない。


「あたしね、圭人にちゃんとそう言えなかったの……

 心のどこかで、自分が辞めるのを仕方ないって思ってた。

 それが悔しくてね、なんか自分が情けなくてさぁ……」


 力無く項垂れた顔を両手で覆い、そのまま動かなくなった春海に何も言葉を掛けてあげられない。


 ただ、春海がここに一人でいるのではないことを知って欲しくて、精一杯の勇気をかき集めるとそっと手を伸ばす。

 いつか春海がしてくれたように何度も優しく背中を擦ると、春海が頭を肩に寄せてきた。その身体を受け止める事しか出来なくて、ただ黙って背中を擦り続けた。


 ◇


「ごめんね、突然こんな重い話聞かせて」

「いえ……」


 胸に溜まった想いを吐き出してすっきりしたのか、顔を上げた春海の声は普段と何も変わらなかった。僅かな光を頼りに表情を窺うも涙の跡すら無いその顔は春海の心の強さを表しているようで、すぐに泣いてしまう自分の弱さを痛感する。


「あの、誰か……花ちゃんでも勇太さんでも相談出来ないんですか?

 私じゃ何も役に立てないし……」


 春海が一人で悩むくらいなら的確なアドバイスをくれる相談者に頼れば良い。何もしてあげられない自分の無力さを呪いながら春海にそう提案すると、一瞬の間があってから、困った様に笑うのが分かった。


「実はさぁ、昼間に花江さんには相談しようと思ったの」

「え? 花ちゃん、忙しそうでした?」


 歩が買い出しの間に『HANA』を訪れていた事は花江から聞いていた。三十分ほど滞在していたと言っていたが、その時に相談出来なかったのだろうか。


「あぁ、そうでも無かったんだけどね。その、さ、」

「?」


 珍しく歯切れの悪い春海の言葉の続きを待っていると、一つ息を吐いて春海がようやく視線を合わせる。


「花江さんには何となく言いそびれたっていうか………結局、出来なかったの」

「どうしてですか?」


 単純な質問になぜか春海がますます困ったような態度になった。


「ほら、花江さんに申し訳ないっていうか、何か、分かって欲しい人じゃないなっていうか、その……」

「?」



「つまり、あたしが弱音を打ち明けられるのは歩しかいないのよ」


 力のない口調と困った様な笑みが、自分の心を深く深く撃ち抜く。

『好き』よりもずっとずっと強い感情が全身を駆け巡り、今すぐ手を伸ばして力一杯抱きしめたい衝動が沸き起こった。



 ──もう、限界だ



「……春海さん」

「ん?」


「私、!?」


 歩が口を開くと同時に闇を切り裂く電子音と光が溢れ、慌てたように春海が身じろぎした。


「ごめん!

 オフにするの忘れてた」

「あの、電話ですよね!?

 わ、私、先に戻ります!」


 それだけを言い残して立ち上がると、逃げるようにドアに向かう。階段を駆け下り、二階のすぐ手前の柱の影に身を隠すよう寄りかかると、激しく音をたてる胸を強く押さえた。


「っ、……はっ………はぁ………はぁ………」


 ──私、今、何を言おうとしてた!?


 ずるずると力無く座り込み、乱れた息を整える。悪夢から醒めた時の様にじっとりとした汗を背中に感じながら、歩はしばらくその場から動けずにいた。

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