第111話 変化の予兆(9)
やっとのことで気分を落ち着かせた後、何事もなかったかの様に振る舞いながら食事会は無事に終了した。片付けの合間に春海の様子をうかがったものの、普段と変わらない楽しそうな表情は事務所を出る最後まで変わることは無かった。
◇
「おやすみなさい」
部屋に戻り一人きりになると、取り繕った表情を消してその場に座り込む。
疲れた
投げ捨てたい諦めきれない気持ちに
どうすることも出来ない現実に
避けては通れない辛い未来に
何も考えられない
何も考えたくない
もう
「疲れた……」
呟きに反応したかのようにバックの中でスマホが小さく振動した。一瞬無視しようかと思ったものの、春海かもしれないと思い直しのろのろとバックを漁る。
「……」
メッセージは佐伯からで、今日の食事会についてだった。どうやら佐伯も呼ばれていた様だが用事があって行けなかったらしい。
──もし佐伯さんが食事会に来れていたなら、今日はどうなっていたのだろう?
曖昧にしたままの誘いをぶり返すことのない相変わらずのメッセージを眺めながら、ふとそんな疑問が浮かび上がる。
──二人でいる姿を見せたなら、春海さんは気にしてくれるだろうか?
思いついた考えは酷く甘い色に染まっている気がして、ぞくりと心が震えた。
この鬱屈した気持ちを抱え込んで春海に笑顔を向けるのはもう限界に近い。こんな思いを繰り返すくらいなら、程無くして手の届かない人になってしまうくらいなら、ほんの少しだけでも良いから自分の事を気にかけて欲しい。
いつもより長めの文章になったメッセージを送り、スマホを閉じる。抱えた膝に押し付けた頭を長い間上げることは無かった。
◇
日曜日の朝、支度を済ませ駐車場に向うと既に一台の車が停まっている事に気がついた。待ち合わせの時間までまだ十分以上あった筈なのに、一体いつから待っていたのだろうと驚いていると運転席から佐伯が降りてくる。
「こんにちは、歩さん」
「すいません! お待たせして」
「いえ、僕が早く着きすぎちゃったんです。それに、今日はオフなんでそんなに堅苦しくしないでください」
満面の笑みで迎えてくれた佐伯に乾いた心がぎしりと音をたてる。乗り込んだ車内は男性アーティストの歌が流れていて、歩がシートベルトをする間に佐伯がボリュームを下げた。目の前のダッシュボードは綺麗に片付いているし、甘い香りとは正反対の清涼感のある芳香剤に、ここが春海の車でないことを嫌でも認識してしまう。
「それじゃあ、行きましょうか」
自分勝手な誘いに喜ぶ佐伯を目の当たりにしたことでじわりと罪悪感が沸き上がる。内心後悔しながらも既に後には退けない状況いることに今更ながら気がついて、膝の上に置いた両手を握りしめる。そんな歩に佐伯がハンドルを握りながら話しかけてきた。
「あの、今日はOKしてくれてありがとうございました」
「いえ、私こそ随分お待たせしてしまって……」
「全然大丈夫です! ダメ元で勇気を出してみたんですけど、頑張って誘ってみて良かったです」
照れくさそうな表情につられて小さく微笑むと、佐伯も笑った。
◇
ほんの数時間出ていただけですっかり暗くなった駐車場に車が滑り込む。つつがなく終えた外出にほっとして、シートベルトを外すと佐伯の方を向いた。
「今日はありがとうございました。
ケーキまでご馳走になっちゃって」
「あれくらい大した事じゃないですから」
映画の代金は払ったものの、喫茶店の代金はいつの間にか佐伯が二人分払ってあり、頑としてお金を受け取らなかった。歩としては奢られた事に気が引けるものの、佐伯は意に介した様子もない。
「それより、歩さんは楽しかったですか?」
「……そうですね」
映画を観て、喫茶店でお茶をして、他愛のない会話を交わすその間。常に隣で自分の事を気にかけてくれる人がいる、そんな一時。
きちんと笑っていたのだから楽しかった、と思う。
何も考えなくていい時間を無為に過ごすよりはきっと良かったに違いないから。
だから、この返答で間違ってはいないはずだ。
「楽しかったです」
「それじゃあ、また行きましょう!」
「勿論、歩さんの都合に合わせますから!」と慌てて付け加えたその大真面目な表情に形ばかりの笑みを浮かべた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます