第107話 変化の予兆(6)
「それじゃ、またな」
「うん」
昼前に起きた圭人はそのまま帰るらしく、見送りのために駐車場まで並んで歩く。階段を下りたアパートの玄関前、鈍った足取りをついに止める。
「圭人、あのさ……」
「うん?」
「……一緒に住む話、少し考えさせてくれる?」
「どうした?」
困惑した声に恐る恐る顔を上げると、少し先を歩いていた圭人が眉をひそめ、戸惑っているのか怒っているのか分からない表情で春海を見つめていた。
「私、ここで働きだしたばかりだし、仕事もやっと楽しくなってきたの。だから、もう少しだけ……ここにいたい」
「……つまり、春海は結婚したくないってことか?」
「そんなこと言ってない!」
「じゃあ、いつまで待てば良いんだ? 一年? 二年?
待てば待つほど辞めづらくなるんじゃないか? 仕事を優先してたら俺たちはいつまでも一緒になれないってことだろ?
それこそ転勤次第じゃ今まで以上に会えなくなるかもしれないのに、そんなの俺は嫌だ。だからこそ今が良いタイミングだと思ったんだ」
「それは……! 分かってる……」
圭人の淡々とした声に思わず下唇を噛む。
『遠距離恋愛だったので』
『子供が出来たから』
今まで妊娠や結婚を機に退職する友人や同僚を幾人か祝ってきた。次は自分の番というなら、同じように仕事を辞めればいい話なのだろうが、やりがいを覚えた仕事を簡単には手放せなくて、だからこそ、素直に返事が出来なかった。一晩考えた末のせめてもの妥協案すら受け入れてもらえない事が苦しくて、上手く言葉が出てこない。
「もういい」
車のエンジンを掛けた圭人が荷物を後部座席に投げ込む。投げやりともつかないその動作が春海を責めているようで思わずびくりと身体が跳ねた。
「とりあえず、帰るから」
「あ、うん……」
苛立ちを逃すように大きく息を吐いた圭人が窓を開けて春海に手招きする。強張った表情の春海が窓に顔を近づけると、軽くキスされた。
「っ!?
ちょっと!」
「じゃあな」
慌てて回りを確認する春海に笑みを見せると、圭人を乗せた車が走り去っていく。圭人的には仲直りの行為だったに違いないが、昼間のこんな場所で誰かに見られたらと思うと、春海としては気が気ではない。
結局解決出来ない問題を抱えたまま、圭人の去った方角をぼんやり見つめるしかなかった。
部屋に戻ると、のろのろとベッドに座り込む。
圭人の滞在時間はほんの数時間しかなかったはずなのに寂しさよりも安堵の気持ちが大きいのは心に抱えた問題のせいだろう。朝食くらいなら振る舞うつもりでと買い込んでいた食材は使うことがないまま冷蔵庫に眠っている。自分一人の為に料理をするはずもなく、無駄になってしまうであろうそれらを不憫に思っていると、昨夜のケーキの存在を思い出した。
「圭人、食べずに帰っちゃった……」
箱を開けると、二切れのケーキと少し数の増えたクッキーがフォークまで添えられている。手間暇掛けたケーキまで無駄にしたくなくて、コーヒーを淹れたマグカップと共にテーブルに運ぶ。フォークで切り分けたケーキを一口食べると、滑らかな舌触りとチーズの風味が広がった。
「……相変わらずクオリティが高いなぁ」
一生懸命作ってくれたであろう笑顔の雪だるまに励まされるように口角を上げるも、心の重荷は消えそうになかった。
◇
「春海さん、白井さんが来てるよ」
「えっ! 白井さん!?
っと、ありがと、勇太」
慌ててパソコンを閉じると、椅子から立ち上がりドアへ向かう。
「わっ!」
「やかんで火傷しないようにね。気を付けてよ」
「ごめんごめん!
忘れてた」
今日設置したばかりのストーブに危うくぶつかりそうになるのを回避すると、自分を落ち着かせるよう大きく深呼吸してドアを開ける。廊下をパタパタと鳴るスリッパの音に玄関で立っていた白井が笑顔を見せた。
「ごめんなさい!
お待たせしました」
「いえ、僕が勝手に来ただけですから」
応接スペースに案内しようとする春海を制して、足元に置いていた大きな紙袋の口を広げた白井が中から取り出したのは葉のついた大根。
「そろそろ収穫するには良さげなサイズになったんで、何本か持ってきたんです」
「これって採れたてですか?」
「ええ」
土の付いたままの根の部分と、みずみずしい葉。恐々と受けとると、しっかりとした葉の感触が痛いくらい手のひらに感じられる。
「思った以上に大根が細くて小ぶりなんですね。
私、もう少し太くてずっしりしてるのかと思ってました」
「僕もそう思ってたんですけど、桑畑さん曰く、漬物用は全体的に細長くて皮が厚いらしいんです」
「へぇ~」
「食べてみましたけど、味は普通の大根でしたよ」
「えっ?
これ、このまま食べれるんですか?」
驚く春海の言葉に白井が笑い出す。
「勿論、大根ですからね。
サラダでも煮物でもいけましたよ。折角なんで皆さんで食べてみてください」
「自分達が作るのに味を知らなくちゃ困るでしょう?」そう言われて受けとった大根は結構な本数が入っているらしく、思った以上に重い。
「ありがとうございます、白井さん」
頭を下げた春海に「いいえ」と返した白井が何かを思い出したかのように真顔になる。
「鳥居さん。
このイベント、絶対成功させましょうね」
「えっ?
は、はい。勿論ですよ!」
両手に拳を作る春海に頷いた白井が嬉しそうに笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます