第106話 変化の予兆(5)
「ごちそうさま。
色々ありがとう!」
「ありがとうございました」
「おやすみなさい」
歩と花江にドアまで見送られて、真っ暗な駐車場に一台残る車に戻る。
駐車場から道路に出る間際、車の中から手を振ると向こうからでは見えないはずなのにドアの前で歩がぺこりと頭を下げるのが見えた。
「ご飯、美味しかったでしょう?」
「ああ、旨かった」
圭人の言葉に満足しながら、遠ざかる『HANA』をミラー越しに眺める。圭人には黙っていたが、今回のディナーは通常のメニューよりも明らかに豪華なものになっていた。それが花江の心遣いであることは明白で、予約から無理を通してくれた友人の気持ちが身に染みる。
近々お礼を伝えに行こうと立て込んだスケジュールの調整をぼんやりと頭で考えていると、ハンドルを握った圭人が思い出したように口を開く。
「しかし、春海は長瀬さんに日頃から俺のこと何て言ってるんだ?」
「やあねえ、大したこと言ってないわよ」
「やっぱりあの時聞いとけば良かったな」
「ばか。毎回惚気ないでって呆れられてるのに」
からかわれている事を自覚しつつ、手を付けないまま持ち帰る事になったケーキを膝の上でそっと持ち直す。本音を言うならば花江や歩とももっと楽しく話をしたかったし、デザートもゆっくり味わいたかった。結局、当たり障りのない会話ばかりで早々と切り上げることになってしまった事に少しだけ残った不満を消すよう片手を圭人の左手に添えた。
「長瀬さん、俺たちと殆ど変わらないのに店を切り盛りしてるんだろ?凄いよな」
「ねー、本当。
私は無理だなぁ」
「確かにな」
「酷っ!」
「だって春海、料理苦手だろう?」
「まあ、そうなんだけどさぁ………そういえばあの子、どうだった?」
「あの子って、あの店員さんか?」
「そう。
彼女が前に話してた十九才の子なんだけどね」
「背が高いなって思った。
俺より少し低いくらいか?」
「それって見た目じゃない! 他に印象とかあるでしょう」
春海の呆れた声に前を向いたまま笑った圭人が添えていた手を引き寄せると指を絡ませる。
「全然話さなかったし……強いて言うなら大人しめのごく普通の子って感じかな。春海、ここの信号は?」
「あ、真っ直ぐ、それからもう少ししたら左。
……そっか、普通かぁ」
何となく残念な気持ちを抱えながらアパートまでの道のりをナビゲートする。
いつになく笑顔の硬かった歩を思い出して、そういえば自分も上辺だけの会話しかしなかったことに気がついた。
◇
「ただいまー」
日頃は使わない言葉と共に電気を点けると、直ぐ後ろに立つ圭人を玄関に招き入れて鍵を閉める。
「お邪魔します」
この日のために三日かけて整頓した部屋の中央で圭人がきょろきょろと辺りを見回している。
「思ったより狭いんだな」
「独り暮らし用だからね。
荷物そこに置いていいわよ」
冷蔵庫から買っておいたミネラルウォーターのボトルを取り出し、自分用にと電気ケトルのスイッチを入れる。
「お水飲む? お茶もあるけど」
「水、貰うわ」
ベッドに腰かけた圭人が首筋を揉みながら答える。春海の恋人として『HANA』では随分と気を張っていたらしく、その疲れたような仕草に愛しさと申し訳なさが混ざる。
「お疲れ様」
ボトルを渡すついでにお礼も込めて頬に軽く唇を押し付けると、手首を掴まれて引き寄せられた。
「……ん、…………っ、」
久しぶりに触れる唇に身体の熱が瞬く間に上がっていく。どうやらそれは圭人も同じらしく、一向に離そうとしない。そのままの姿勢で圭人がベットに身体を倒し、抱きしめられていた春海も圭人にのし掛かるように倒れこんだ。
「ちょっと、圭人!」
「ん?」
「まだ、荷物を ぁ!」
服を捲り上げる手に一応の抵抗を示すも、引くつもりはないらしい。いつもより強めな手つきに思わず声が漏れ、それを引き金に再び唇を塞がれる。
「っ……ねぇ、せめてデザートを冷蔵庫に入れてからにして」
「そのままでも良いだろう。夏じゃないんだし」
「駄目」
強めに引いた身体から仕方なくといったように圭人の腕が離され、名残惜しそうに腕を撫でる。ケーキを潰さないように冷蔵庫に入れると、テーブルに投げ出したままのバックとコートもついでに片付ける。
折角会えたのだから、直ぐにでも触れあいたいと思う気持ちは分かる。その一方で、話したい事がたくさんあったし、ゆっくりとしたかったのも本心だ。だけど、意識しなかったとはいえきっかけを作ったのは自分だし、ここまで盛り上げておいて今さら止める訳にはいかない。
それに、
──忙しい中、折角時間を作って来てくれたんだから
対等であるはずの恋人に何故か負い目を感じてしまいながらベットで待つ圭人の元へ向かった。
◇
「、くしゅん!」
うとうとしていたらしく、寒気を感じて目が覚めた。
「寒いか?」
「……あれ? 私、眠ってた?」
「二、三分くらいかな」
汗で冷えた身体を温めるように布団をかけ直してくれた圭人に身を寄せる。どうやらスマホを弄っていたらしく、明かりを落とした部屋にスマホの画面だけが明るく光っている。
情事の後特有の気だるさにここ連日の疲れが加わり眠気は増すばかりだが、自分も部屋も帰宅したままの状態では明日に差し障る。布団の誘惑と明日の後悔を天秤に掛けて悩んでいると、「そういえば」と圭人が顔を上げた。
「スマホが鳴ってたぞ」
「え、本当!?」
一瞬で眠気が吹き飛び、がばりと起き上がるとバックを探る。仕事関係の連絡だったかと画面を開いてみれば、母親からメッセージが一件入っており、どっと気が緩んだ。
「仕事の連絡だったのか?」
「ううん、実家から。
年末くらいは顔を見せなさいって。転職も報告しなかったから何かと心配みたいなのよね」
「可愛い娘が心配なんだろう。
そこまで言われてるんなら帰ってやれよ」
「可愛いなんて、やめてよね。
幾つだと思ってんの」
「年は取りたくないなぁ」とぼやきながら布団に戻るとメッセージの文章を考えながら入力する。
「春海」
「ん~?」
「俺たち、そろそろ一緒に住まないか」
「……うん?」
何かの聞き間違いかと顔を上げると、同じような態勢でこちらを見つめる圭人と目が合う。
「え、一緒に……住む?」
「付き合ってもうすぐ二年になるし、その、良いんじゃないかと思って……」
「えっ、ちょっと待って!
圭人、来年転勤するのよね?」
圭人の会社は西日本を中心に広く事業を展開しており、数年置きに移動がある。まだ内示は出ていないものの、勤務年数的に考えて4月に転勤することは確実だった。
「ああ、ずっと言うつもりでいたんだが……その、実家の話を聞いて、年末帰省するなら挨拶に行くのも丁度良いと思ってな」
「…………もしかして、プロポーズしてる?」
「まあ、な……」
恥ずかしさが勝るのかプライベートでは遠回しな表現を好む圭人の真意を理解すると、驚きすぎて言葉を失った。
「でも、仕事が……」
「俺は一緒に暮らせるなら少し遅くなっても構わないから、春海の都合に合わせるよ。年度末なら区切りも良いだろうし、引き継ぎとかも必要だろう?」
「あ、う、ん……」
笑顔を向ける圭人にそれ以上の言葉が続かない。沈黙を了解と捉えたのか、スマホの電源を消した圭人が仰向けになると春海の身体を引き寄せた。
「それじゃ、早めに親御さんに連絡しててくれよ」
ちゅっと軽いキスを落とされて沈黙と暗闇が部屋に広がった。程なくして聞こえてきた軽いいびきを耳にしながら、暗闇の中、春海はいつまでも動けずにいた。
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