第103話 変化の予兆(2)
朝から雨が降ったせいで正午を過ぎても気温は低い。その為だろうか、今日のメニューであるシーフードシチューは飛ぶように消えていく。
「お待たせしました」
「おう」
「どうも」
壮年の男性二人組にトレイを配膳すると、早速スプーンを手に取った。二人とも見慣れない顔だが誰からかの伝手らしく、一種類しかないメニューを提示しても違和感は持たれなかった。
「歩、あちらのお客様が帰られたらドアのプレートを替えてて」
「え? シチューもうないの?」
「残りが一人分ってとこね」
「分かった」
食事をする客に聞かれないよう小声のやり取りを終えると、シンク前の定位置に着く。空腹を満たすよう黙々と食べ進める姿に、思った以上に早く店じまいしなければならないかもしれない。
ドアの向こうで車が駐車場に入ってくるのが見え、水道の蛇口を止めた。遠目から見える軽自動車は薄くスモークがかかっているらしく、ここからでは車の中の人数が分からない。
「花江さん」
カウンター下で駐車場を指差した歩に花江が小さく頷く。不自然にならないようそっと外へ出ると、車のドアを開ける男性に断りを入れるつもりで近づき、驚きの声を上げた。
「あれ? 白井さん!
こんにちは」
「こんにちは。
元気にしてた?」
「はい、元気です。
白井さんお一人ですか?」
「いや、今日は食事に来たんじゃなくて、これを持ってきたんだ」
白井が後部座席のドアを開けると、段ボール箱に入った大量の野菜が見える。
「新しい顧客を増やすために試作の野菜を色々植えてみたんで、お裾分け」
「わ! ありがとうございます!
でもこんなにもらって良いんですか?」
「今年は天気が良かっただろう? 思った以上に野菜が出来すぎちゃってね。
市場に出すには中途半端の量だし、宣伝も兼ねてあちこちに配ってるんだよ。だからもらってくれるとありがたい。
結構あるから中まで運ぶよ」
「ありがとうございます!
あ、少し待っててもらえますか」
中にまだ客がいることを思いだし、勝手口を兼ねた住居用の玄関に案内しようと踵を返すと、先程の二人組が出てきた。ドアの向こうから「ありがとうございました」と花江の声に送り出され、視線を白井に向けた男性の一人が立ち止まった。
「よう、こんなところで会うとは珍しいじゃないか」
「そうですね」
どうやら右側の男性は白井の顔馴染みだったらしく、「誰だ?」と聞くもう一人の男性に説明している。社交辞令のようにお互いの近況を聞き合った後、咥えたタバコに火を点けながら男性がひょいと顔を上げた。
「そういえば、お前、役場に頼まれて大根植えたんだってなぁ」
「はい。
今のところは順調ですよ」
「何するんだよ、あんなに植えて。
あれだろう? 何とかプロジェクトとかで使うっていう。
あんなお遊びに付き合うなんて、お前も変わってるよなぁ」
「!」
「地域起こしプロジェクトですか。今度のは大規模なイベントになりそうなんです。良かったら見に来てくださいよ」
煙を吐き出しながら軽く嘲る口振りに思わず身体が跳ねるも、白井の口調は穏やかなまま変わらない。
「ったく、あんな風に遊んでて、毎月金がもらえるんだろう。
ほんと良い身分だぜ」
──そんな事ない!!
春海さんがどんな思いで頑張っているか知らないくせに!
それ以上の言葉を遮りたいのに、喉まで出かかった言葉は一向に出てきてくれず、掴み掛かって止めたい腕は杭で止められたからのように微動だにしない。
「そんな事言わないで下さいよ。
あの人たちは一生懸命してくれてますよ」
「確かそこの中学校が事務所なんだろ?
俺らなんざ姿も見た事ないが、やってんのか」
「ああ、そう言われてみりゃ車がよく停まってるわ。へぇ、あそこにいるのか、初めて知った」
春海たちを貶すような軽い口調が目の前を滑っていく。その度に白井がフォローしているものの、一方的な会話が終わるまで歩は顔さえ上げれなかった。
「じゃあな」
「はい」
やがて話は終わったらしく、男性は連れだって立ち去っていった。
「どうした? 歩さん」
気持ちを切り替えるよう深々と息を吐いた白井が隣の歩のただならぬ雰囲気に気づいたらしく、のぞき込んでくる。
「…………いえ」
涙を見せるまいと何度も瞬きを繰り返しながら、ようやく口に出した一言が小さく震え、それだけで察したのだろう白井が苦々しく笑みを浮かべた。
「ごめんな。
気を悪くしたんだろう?」
白井が謝罪してくれたことがまた悲しくて、首を横に振る。
「僕がもう少ししっかり言えれば良いんだけどね。
ほんとごめん」
「……白井さんは、何も悪くないですから」
「そんな事ないよ。
仲の良い人たちを悪く言われて何も思わない人なんていないから」
「いえ、本当に……」
悔しくて悔しくて仕方がないのは何も言えなかった自分の不甲斐なさ。
ほんの僅かの勇気があればあれほど言われずに済んだかもしれないのに、その僅かさえ出すことの出来ない自分が腹立だしくて、情けなくて、悔しい。
皮膚を突き破りそうなくらい強く握りしめた両手の痛みすらも気にならないほどの後悔が込み上げる。
「……とりあえず、野菜を運ぼうか」
これ以上やり取りを繰り返しても同じだと気づいたのだろう。白井が段ボール箱を取り出して歩に声を掛ける。後ろを着いていった歩が店のドアを開き、花江に声を掛けた。
「花ちゃん、白井さんから野菜をたくさん頂いたから……」
「あら、ありがとうございます!」
明るい声を上げた花江が歩を見て目を丸くする。
「……どうしたの?」
「ううん、何でもない。
ちょっと奥に行ってくるね……」
「歩?」
形ばかりの笑みを作って素早く住居スペースに逃げ込むと、洗面所に駆け込んで蛇口を思い切り捻る。冷たい水を顔に何度も打ち付けて行き場のない思いを水に流した。
◇
冷たさを感じなくなった頃にようやく店に戻ると、既に白井は帰った後らしく、花江が段ボール箱から野菜を取り出しているところだった。
白井から先程の事情を聞いたのだろうか、何も訊ねることない花江の隣に並ぶと野菜を種類ごとに分ける作業を手伝う。
「白井さんにはきちんとお礼言っておいたから」
「……うん」
後悔を引きずったままの返事に、隣で花江が仕分けの手を休めぬまま話しかける。
「歩、白井さんが歩の事を誉めてたわよ」
「……どうして?」
「大切な人を傷つける言葉に傷つく歩の純粋さが羨ましいって」
「……そんなの全然良い事じゃないじゃん」
思ってもみない言葉に拍子抜けしたような表情の歩に花江が顔を上げる。
「大人になると、心の内とは別に表情を作ってしまうものなの」
「……」
白井も心の内では不快に思いながら、それでも笑顔を作っていたのだろうか。男性達と別れた直後の白井の重々しいため息を思い出す。
「それと、それだけ大切に思われている春海は幸せだって笑ってたわ」
「!」
どう答えれば良いのか分からないまま、恥ずかしさと戸惑いがごちゃ混ぜになった胸の内を隠すように俯いた。
「…………早く大人になりたい」
ぽつりと呟いた言葉に花江がくすりと微笑んだ。
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